2009年8月31日月曜日

卒業論文。改訂版。

卒業論文

題目:イリッチ『脱学校の社会』の現代的意義の考察

~「学校化」「脱学校」「価値の制度化」「ラーニング・ウェッブ」の定義の考察~

早稲田大学教育学部教育学科教育学専修 4年 藤本研一

学籍番号:1060839

1、はじめに

 イヴァン・イリッチIvan Illich1926—2002)の著書『脱学校の社会』(原題:The Deschooling Society)。この書は、脱学校論を説いたことで有名な著書である。「就学義務が大多数の人々の学習する権利をかえって制約している」(『脱学校の社会』1頁)点から、学校を廃止し、新たな教育空間の樹立を提唱している。

 学部卒業後、私は大学院に行き、さらに教育学の研鑽を深めていきたいと思っている。それにあたり、近代教育学(特に学校制度)への根本的批判を行ったイリッチの思想についてを自分なりにまとめておく必要性を感じるようになった。それには次のエピソードが元になっている。

 中学から高校にかけて、私は学校制度のもつ「気持ちの悪さ[1]」を何となくではあるが、感じるようになった。無理やりクラスに割り当てられ、決められた学習を唯々諾々とこなしていく学校。途中までは学校に自分を合わせるように努力をしていたが、クラスメートによる集団的な排除の経験をして以来、学校というものがつくづく嫌になった。

 大学に入り、『脱学校の社会』という書と出会う。また、学校以外の学び舎であるフリースクールというものとも出会った。学校の持つ「気持ちの悪さ」を理論面で説明している発想であったのだ。

 『脱学校の社会』などのイリッチの著作を見る中で、自分自身の考え方も変化していった。本稿で『脱学校の社会』を取り上げたのも、自分の大学生生活と非常につながりが深い内容だからである。

2、本稿の構成ならびに目次

 本稿は以下のように構成されている。

(省略)

3、本稿の狙い

 本稿は、イリッチの『脱学校の社会』をもとに考察した事柄をまとめたものである。『脱学校の社会』の鍵概念である、価値の制度化・学校化・脱学校・ラーニングウェッブという単語の定義について考察を行う。そこから、イリッチの教育思想を考えていく。

 ラーニングウェッブについては、現在の社会での実現可能性も考察していく。

 

4、序論

 

 辞典によれば・・・(イリッチの生涯についてを引用する)

 思想家イリッチは、彼独自の言葉を多くつくっている。『脱学校の社会』のみに限っても、「学校化」「価値の制度化」「相互親和社会」など、多くの言葉がある(要出典)。『脱学校の社会』は彼の初期の著作だが、それ以後にも「シャドウ・ワーク」(『シャドウ・ワーク』)などの独特の言葉を提唱している。

 実際の所、彼の用語は誤解を受けて使用されていることが多い。本論でも指摘するが、『脱学校の社会』を〈学校の制度改革〉論として読む論者も入れば(『脱学校化社会の教育学』)、大学などのあらゆる学校の廃止を謳った本であると誤読している論者もいる(佐藤学ら)。

 本稿には、イリッチの『脱学校の社会』にもたらされている誤解を晴らすという目的がある。

 もう一つの狙いとして、現代における『脱学校の社会』再評価を行うというものがある。イリッチが「ラーニングウェッブ」概念を発表した当初、「夢物語だ」という批判が多く出た。

『脱学校の社会』が発表されて以来、最も批判を浴びたのは、代案についてであった。このような批判は、本書の中でもたくさん展開されている。脱学校論者の具体的代案の欠け、あるいはその貧弱さに対する批判は、新ロマン主義者、学校改革論者から集中的に出されている。(桜井恵子「解説」、イヴァン・イリッチ他、松崎巖訳『脱学校化の可能性』東京創元社、1959年、208頁)

 この引用文内の「代案」とは学校を廃止したあとの教育システムについてのことである。そのため、ラーニングウェッブ以外のイリッチの「代案」も含まれている。

『脱学校の社会』発表の1970年には、情報インフラの整備がほとんどなされていなかった。しかし現在の日本はIT革命・ユビキタス社会との言葉に象徴されるように、高度情報化社会となっている。イリッチの「ラーニングウェッブ」が実現可能と言えるような状況となっているように筆者には思える。そのため現代におけるラーニングウェッブ論の意義を考察したいと考えている。

 もっとも、イリッチ自身は脱学校を行った後の教育システムである「代案」にはあまり関心がなかったようだ。

イリッチは、この論文(『脱学校化の可能性』所蔵の「学校をなくせばどうなるか?」というイリッチの論文)の中で具体的代案を展開せず、代案の原則だけを語り、政治的目標を列挙している。このことをみれば、彼の関心が代案の具体的実施や実践にはほとんどなかったことがわかる。(桜井恵子「解説」、イヴァン・イリッチ他、松崎巖訳『脱学校化の可能性』東京創元社、1959年、209頁)

*(  )内は藤本。

 イリッチは途中からほとんど教育についての言及を行わなくなり、代わりに「脱病院化」「シャドウ・ワーク」などの近代社会批判の論文を書くようになっていく。(「学校化」についての辞書から引用のこと)

 『脱学校の社会』から再び引用する。

 つまり個々人にとって人生の各瞬間を、学習し、知識・技能・経験をわかち合い、世話し合う瞬間に変える可能性を高めるような教育の「ネットワーク」をこそ求めるべきなのである。本書は、教育に関してそのようにものの考え方を逆転させてみるような研究をしている人々および教育以外においても、確立されたサービス産業の諸制度にとって代わるもの(オルターナティヴズ)を捜し求めている人々が必要とする概念を提供したいと思う。(『脱学校の社会』2頁)

 この部分のポイントは「概念」という言葉である。〈イリッチは夢物語しか語らない〉という批判をする人は多いが、「概念」についてを提供するために本書が書かれたのだからこの批判は当たらないのである。

 

 なお、イリッチはフレイレとの出会いと仕事(対談集『対話』出版)の後、教育の不可能性についてを指摘するようになる。しばらく後からは教育的言説をまったく行わなくなる。

 『脱学校の社会』と後期のイリッチの思想の不連続性も主張されている。そのため本稿においては、あくまで『脱学校の社会』と『脱学校化の可能性』でのイリッチの教育観を見てみるものとする(論考の参考として、『シャドウ・ワーク』などの後期の著作も使用するものとする)。その理由としては、『脱学校の社会』中の「学校化」「価値の制度化」「脱学校」「ラーニングウェッブ」などの概念の整理と、「ラーニングウェッブ」の現時点での実現可能性と教育政策改革案としての思考を行うことが本稿の目的であるからだ。

*フリースクールの定義について。

 本稿において、「フリースクール」はフリースクール全国ネットワーク加盟[2](通称 フリネット)のフリースクールを指すものとする。そのなかでも、筆者が何度か見学に行き、そしてボランティアとして関わっている「東京シューレ」の王子校と新宿校をフリースクールのモデルとして考える。

フリネット加盟のものを「フリースクール」と本稿で指す理由として、フリースクールの形態が多様であることがあげられる。自団体の建物ではなく公民館の一室などを借りて行っているフリースクールもあれば、塾産業や予備校などが運営するものもある。フリースクールと類似のものとして「フリースペース」や「居場所」と呼ばれるものも存在する。

世界的には、日本で言う「フリースクール」を、デモクラティックスクール[3]と呼ぶことがある。

 なお、単に「フリースクール」と呼ぶ場合、シュタイナー教育を行う「東京賢治の学校」のようなオルタナティブ教育とは別のものと考える。それは、『フリースクールとはなにか』の次の記述に基づいている。

伝統的な学校教育ではなく別のものを求める、というとき、シュタイナー、モンテッソーリ、フレネその他、はっきりした教育思潮と方法論をもって世界的に広がっている教育もある。それらは、オルタナティブ教育と呼ばれても、フリースクールとは呼ばれない。フリースクールは、オルタナティブスクールのなかの一つであって、学校教育以外であればフリースクールというわけでもない。

 フリースクールが、他のオルタナティブ教育ともっとも違う点は、子どもを主体とすることであり、教育内容を自由につくりだす、ということであろう。○○を○○のために教える、活動させる、というのではなく、子どもの興味、関心、意欲に依拠して作っていくことになる。それは、子ども中心であるがゆえに、教師と生徒の関係を含め、あらゆる側面が変わることになる。(NPO法人東京シューレ編『フリースクールとはなにか』教育資料出版会、2000年、17頁)

 この記述において注意すべきは、シュタイナーやフレネの教育をフリースクールではないと語っていながら、ニイルのサマーヒルスクールは「フリースクールだ」と呼んでいる点である。世界最古のフリースクールとしてあげられるのは、ここにあげたサマーヒルスクールだ。1924年に完成している。シュタイナーやフレネなど「はっきりした教育思潮と方法論をもって世界的に広がっている教育」のうち、ニイル発祥のものが「フリースクール」と呼ばれている、と解釈すべきであろう。

 もっとも、フリースクール全国ネットワーク加盟のフリースクールの中に「フレネ自由教育フリースクール ジャパンフレネ」という団体がある。パンフレットには次のように書かれている。

フレネ教育とはフランスに生まれ、ヨーロッパを中心に世界的に広がりつつある自由教育の方法です。(中略)

子どもを主体とするフランスの‘フレネ自由教育’をもとにして、ひとりひとりの疑問や悩み、そして成長を助けていきます。(フレネ自由教育フリースクール ジャパンフレネのパンフレット)

 先の『フリースクールとはなにか』の内容と確認してみると、次のことがいえるであろう。「シュタイナー、モンテッソーリ、フレネその他、はっきりした教育思潮と方法論をもって世界的に広がっている教育」ではあっても、「子どもを主体とすることであり、教育内容を自由につくりだす」実践である時はフリースクールを意味するようである。


5、本論:イリッチ『脱学校の社会』を読み解く。


5−2、「価値の制度化」とは何か。あるいはイリッチの本書執筆の動機について。
5−2−1「価値の制度化」についての自分の考え。

 イリッチの文章をまず見てみる。


多くの生徒たち、とくに貧困な生徒たちは、学校が彼らに対してどういう働きをするかを直感的に見ぬいている。彼らを学校に入れるのは、彼らに目的を実現する過程と目的とを混同させるためである。(中略)「学校化」(schooled)されると、生徒は教授されることと学習することとを混同するようになり、同じように、進級することはそれだけ教育を受けたこと、免状をもらえばそれだけ能力があること、よどみなく話せれば何か新しいことを言う能力があることだと取り違えるようになる。彼の想像力も「学校化」されて、価値の代わりに制度によるサービスを受け入れるようになる。(『脱学校の社会』13頁)


 ここで語っているのは、「価値の制度化」の話である。「制度化」について脚注では、「共通の価値観が内面化される一方、価値を実現するための制度づくりがなされ、その制度に対する人々の期待が高められていくことかと思われる」(54頁)とある。
 これは何を意味するのであろうか。
 本来目指すべき価値を仮にAとする。本来はAをまっすぐに目指していくべきだが、手短な目標である価値Bを目標とする。このBは「価値A実現のための学校の卒業」とでもしておこうか。学校に通い続け卒業すれば(つまり価値Bを目標としていけば)、自然に価値Aに達することができるというタテマエである。ここにある少年に登場してもらおう。価値A実現のために学校Bに通っているのがこの少年である。通っていればいつか卒業できる時が来る。少年はBを出ることのみが重要だとずっと考えていた。卒業して、「学校を卒業したことを認める(価値Bの実現)」という証書をもらった。少年は「このために勉強してきて良かった」と喜んでいる。帰り道、少年はふと気づく。「あれ、価値Aを僕は修得できたのだろうか?」と。
 これが価値の制度化といえるのではないだろうか。本来、学校は教育をすること/子どもが学ぶことが主たる価値である(価値A)。けれど子どもは放っておいて勝手に学ぶかというと、必ずしもそうではない。学びという価値Aを誘発する装置として、学校(価値B)を作った。学校というのは価値Aを実現するための装置、つまり制度にすぎない(価値Bということだ)。

現代は学校という制度に通うことのみが重視されて、そこで教育が行われるということが忘れ去られている。本来なら学校に行くこと(価値B)が重要なのではなく、子どもが学ぶこと(価値A)が重要なのだ。けれど知らぬ間に価値Bの方が重要と考えられ、価値Aがおざなりにされてしまう。〈子どもが学ぶこと〉という価値A実現のためなら、別に学校(価値B)を用いなくとも、たとえばフリースクールに行くという選択肢も存在するべきだ。しかしながら、実際には制度/装置にすぎない「学校」へいくことのみが現在重視されている。この価値の転倒をイリッチは「価値の制度化」と呼んだのであろうと考える。

学校がある限り、「学び」がなくなってしまう。この逆説の解決をイリッチは望んだのである。

学校志向からの脱出は、学校を非学校化するだけではなく、社会をも非学校化することだという内容をつかみとらねばなりません。しかし、この問題は、学校を攻撃する啓蒙的な作業でもなければ、また政治プログラムをいかに編みあげるかという問題でもないのです。要は、宗教制度から学校が世俗化されたことによって(藤本注 近代教育制度成立のための「宗教的中立」が実現した、ということ)、学校の聖化が、〈教育〉を宗教として再構成されていると認知し、学校から「学ぶ」行為を世俗化させるべきだ、とイリイチはいいます。教育を蘇生させるのでも復権させるのでもない。学ぶ様式の多次元的な世界を蘇生させることである、というのです。(山本哲士『学校の幻想 教育の幻想』182頁)

 学校と学びは違う。だからこそ、学校にのみ「学び」が押し込められ、しかも本来的な「学び」がなくなっている(「学び」が「学校化」される)状況を変革していく必要性がある。それが山本の言う「学校から『学ぶ』行為を世俗化させるべき」との発言である。要は学校だけに「学び」を閉ざさない、あるいは「学び」という個人的行為に他人が口出ししない、ということであろう。

 イリッチはこのような他人が口出しをするという「教育」に、強い批判を行っている。

イリイチは、「教育」は近代の新造語であると、全面否定します。さらに、現代産業社会で「教育」とは、‘触知できない商品’であると規定します。彼は、トータルな視座から教育をネガティブなものとみなしているのです。

「教える」ということは、他者が働きかける様式、つまり概念的には他律的様式としておさえられます。それに対して「学ぶ」ということは、自律的な様式です。現代の教育という商品、あるいは基本的必要を中心に構成されている〈学校〉あるいは〈学校化社会〉というのは、その自律的な「学ぶ」ということに「教える」という対立的なものが働きかけた結果なのだ、といえます。ですから「教えないと学べない」とか「教えてやらなければいけない」とかという論理が生じるのです。「教える」という他律的なものが勝利したとき、教育という商品がそこに完成します。他律的なものが働きかけていくと、働きかけた結果、現実的にある価値が作られてしまうのです。ある種の〈資格〉を象徴とする競争原理に基づく序列化社会はまさしく〈教育の商品化〉の結果です。(中略)イリイチは、文明史的な視座から「教育=商品」を時代の本質的な構造として相対化してとらえます。(山本哲士『学校の幻想 教育の幻想』192193頁)

 本来的な学びの復権のためには、「学校」を廃止しなければならない。これが「脱学校」(あるいは山本の「非学校」)を行う意義である。

 林隆三の書いた本を思い出す。『教育なんていらない』というタイトルの本である。小出版社社長の話が、自閉症を抱える息子との日常を描いたエッセイ集である。学校から見放された息子だが、気づけば自分の力で文字を書けるようになっていた。教育こそ、権力である。そんな権力関係に入れられるなら教育なんてなくてもいいのではないか、と問題提起する本である。「教育こそ問題なのだ。教育の問題ではないのだ」(林隆造『教育なんていらない』大宮書房、1989年、   頁)というメッセージが描かれる。

 フリースクール出身で現在社会人のHさんを思い出す。Hさんは18歳までひらがながかけなかったそうだ。でも「あんまり困らないよ」といっていた。

 教育という制度は、本当に必要なことなのであろうか、と改めて考える必要性があるだろう。

 山本哲士はフレイレとイリッチの違いを「教育」に関する視点に求めている。

 フレイレは‘教育はいかなる時代にも普遍的にあった。現在、それが抑圧の教育となっている歴史的・イデオロギー的性格を把握する’といいます。しかし、イリイチは‘教育そのものが近代の構造的な産物であって、その本性からして商品である’とみなすのです。(『学校の幻想 教育の幻想』193

 教育を「人類普遍の営み」とみなすフレイレに対し、「いや近代になってつくられたものだ」とイリッチは主張する。林やHさんの話を見るなら、教育は近代になっての営みだと考えるほうが妥当であろう。

 学校と「学び」はイコールでない。同様に、「教育」と「学び」もイコールではない。教育によって本来的な「学び」が失われることもある。「学び」が「学校化」されてしまうからだ。


5−2−2、「価値の制度化」からイリッチが言おうとしたことは何か。

 再び、『脱学校の社会』の文章を見てみる。


私は以下の拙論において、人々が価値の制度化をおし進めていけば必ず、物質的な環境汚染、社会の分極化、および人々の心理的不能化をもたらすことを示そうと思う。この三つの現象は、地球の破壊と現代的な意味での不幸をもたらす過程の三本柱なのである。(同、14頁)

この文章は(1)で説明した、価値の制度化についてのイリッチの考察である。このなかでイリッチは「物質的な環境汚染、社会の分極化、および人々の心理的不能化」という例を挙げて現代文明に警鐘を鳴らしている。つまり、イリッチは現代の「価値の制度化」という問題を訴えたいのであって、学校は一つの例にすぎない。価値の制度化は、あらゆる分野に起ころうとしているのだ。

 再び本文に戻る。


必要な研究は、人々の人間的、創造的かつ自律的な相互作用を助ける制度で、かつ価値が生み出されるのに役立ち、しかも肝心なところを専門技術者にコントロールされてしまわないような価値を生じさせる制度を創りあげることに、科学技術を利用するにはどうしたらよいかという研究なのである。(14頁)

私は、われわれの世界観や言語を特徴づけている人間の本質と近代的制度の本質とを、相互に関連づけてはっきりさせるためにはどうしたらよいかという一般的な課題を提起したい。そのための理論モデル(パラダイム)をつくる素材として私は学校を選んだ。(15頁)

つまり、イリッチ自身は「価値の制度化」が起きている近代文明への批判を行うために本書を書いたのであって、〈社会の脱学校を断じてなしとげなければならない〉という主張をするために本書を書いたわけではないのである。「脱学校」は、あくまで2次的な目標である。イリッチ自身が「書きやすい」と感じた好例だったため、学校をテーマにしているのだろう。先の比喩を使えば、価値Aが「価値の制度化」論、価値Bが「脱学校論」であるといえる。
 「価値の制度化」が起きているとして、イリッチは「家庭生活、政治、国家の安全、信仰およびコミュニケーション」を挙げている。


私は学校の潜在的カリキュラムの分析を通して、社会の脱学校化は公教育にとって
プラスになるということ、そしてそれと同様に、家庭生活、政治、国家の安全、信仰およびコミュニケーションも、同じような過程を経ることから利益を得るであろうことを明らかにしようと思う。(15頁)


 この文が示している通り、価値の制度化を排す手法は「脱学校化」と同じプロセスなのである。

 なお、価値の制度化について、『シャドウ・ワーク』の中にも類似の概念が登場する。

『シャドウ・ワーク』でイリッチは言う。「もし自分の手で丸太小屋を建てることができるほどのひとならば、そのひとは本当は貧しいとはいえないのだ」(『シャドウ・ワーク』43頁)。丸太小屋という粗末な家をあえて自分でつくることができるのは、金持ちの特権なのである。近代成熟期(ポストモダン)には制度に頼らず「自分で」することは特権階級のすることとなってしまった。制度に頼らない学び、たとえばフリースクールやホーム・エジュケーションに関心を持つのは金持ち層が多い。イリッチの主張はこのような点にも現れている。

「学び」という営みも本来、もっと自由なものであったはずだ。「学校」という制度に頼らなくても、子どもたちが周りの「まね」をのびのび行っているのが本来の「学び」であったはずだ。いま、「まね」ることの出来る環境が無くなりつつあるのと平行に、「学び」が「学校」のみに一元化されようとしている。また宮台真司の言うように学校的価値が社会にひろまるという意味での「学校化」も起きている。「学び」と「制度」がつながってしまったのだ。「価値の制度化」である。

 本章のまとめを行う。イリッチは価値の制度化を批判するために『脱学校の社会』を書いた。脱学校化はあくまで価値の制度化を説明するための題材にすぎないのである。


5−3、学校化とは何か。

5−3−1、「学校化」という言葉をめぐる混乱。

 

 『教育学がわかる事典』によれば、「学校化」という言葉には2つの文脈があるとされる。一つの流れはイリッチが言いはじめた概念、もう一つは日本において社会学者・宮台真司が言いはじめた概念である。

 現在「学校化」というとき、宮台のいう「学校化」の定義と解釈されることが一般的である(『サヨナラ、学校化社会』)。

5−3−2、イリッチの「学校化」概念。

イリッチの元で修行をした経験のある山本哲士。森重雄によれば、山本は当初「学校教育」と訳されたイリッチのschoolingという言葉を、「学校化」と訳すべきだと主張した人物である(森重雄「学校化」、教育思想研究会編『教育思想事典』)。山本はイリッチの「学校化」について次のように説明している。

学習や教育が学校に独占され、学校を通じて学習・教育が生産され価値あるものとなる「産業的生産様式」の典型。「学校」という形態とは区別されるべき、生産様式が「学校化」であり、学校の視えない働きとなっている。教育が制度化されて学校化が構成される。学校化に対抗するものが「非学校化deschooling」で、聖なる学校から教育を世俗化することを意味する。(『学校の幻想 教育の幻想』ちくま学芸文庫、17頁)

 

次は、『新教育事典』(勉誠出版、2002)の「学校化する社会」(楠本恭之)からみていこう。

イリイチが問題とする「学校化」とは、こうした「学校」への、子どもをはじめとして、社会までもの、いわゆる「囲い込み」を意味する。彼は、『脱学校の社会』のなかで、「学校は教育に利用できる資金、人および善意を専有するだけでなく、学校以外の他の社会制度に対しては教育の仕事に手を出すことを思いとどまらせてしまう。労働、余暇活動、政治活動、都市生活、そして家庭生活までもが教育の手段となることをやめ、それらに必要な習慣や知識を教えることを学校に任せてしまう」ことを問題とするのである。(187頁)


 教育学者は『脱学校の社会』を意図的にか知らぬが誤解している。佐藤学でさえも『脱学校の社会』が〈学校の廃止〉を訴えた本である、と解説しているほどである。しかし、実際にはイリッチは〈全員が学校に行かなければならない〉ことを批判しているのだ。
「解説」の欄を見よう。


イリッチが「脱学校」という場合、すべての学校を廃止したり、あるいは学習のための制度のない社会をめざしているのではなく、むしろ学習や教育を回復するために制度の根本的な再編成を求めているのである。そこでは学校以外に選択の余地がなかったり、全員が就学を義務づけられることがなくなるのである。しかしそれは単に学校をめぐる形式のみの変化にとどまるものではない。もっと深く社会のエートスの変革にかかわることなのである。(221頁)


 脱学校[4]とは、単に学校を廃止することを意図したものではないのである。そもそもイリッチは「学校」の定義として、「特定の年齢層を対象として、履修を義務づけられたカリキュラムへのフルタイムの出席を要求する、教師に関連のある過程」(『脱学校の社会』59頁)と書いている。この定義に当てはまる「学校」の批判をイリッチは訴えたのである。『脱学校の社会』でも、大学や技術修得の学校は存続させることが必要であると書かれている。

 なお、ここで書いたイリッチの「学校」の定義は、イリッチの共同研究者のエヴァレット・ライマーとほぼ同一の内容である。『学校は死んでいる』を見てみる。

我々は、段階づけられたカリキュラムの学習のために、教師が監督する教室に特定の年齢群の者が常時出席することを要求する機関として、学校を定義する。ある機関にこの定義が正確に当てはまれば当てはまるほど、その機関は学校のステレオタイプに近いということになる。教育における代案は、このステレオタイプから離れるものとして、最も一般的に定義することができる。その離れ方が学校制度の「引力」から逃れられるほど遠く、かつ速くないと、ふたたび学校制度に吸収されてしまう。(エヴェレット・ライマー著、松居弘道訳『学校は死んでいる』晶文社、1985年、60

ここにある「引力」の比喩は印象的だ。イリイチと同じく、フルタイムでの出席を要求し、年齢ごとに授業し、教師が授業をし、その内容はカリキュラムで決められている、という要素をもつものを「学校」と呼んでいる。

まとめを行う。イリッチは価値の制度化により〈学習のほとんどが教えられたことの結果だ〉と考える姿勢をこそ批判したのである。そして、この〈学習のほとんどが教えられたことの結果だ〉という考え方こそが「学校化」という概念なのである。

 イリッチの文章を見てみる。


学校教育の基礎にあるもう一つの重要な幻想は、学習のほとんどが教えられたことの結果だとすることである。たしかに、教えること(teaching)はある環境のもとで、ある種類の学習には役立つかもしれない。しかしたいていの人々は、知識の大部分を学校の外で身につけるのである。人々が学校の中で知識を得るというのは、少数の裕福な国々において、人々の一生のうち学校の中に閉じ込められている期間がますます長くなったという限りでそう言えるにすぎない。
 ほとんどの学習は偶然に起こるのであり、意図的学習でさえ、その多くは計画的に教授されたことの結果ではない。普通の子供は彼らの国語を偶然に学ぶのである両親が彼らに注意していればより早くはなるであろうが。(3233頁)


 先に「価値の制度化」について見てきた。「脱学校」とは〈学習のほとんどが教えられたことの結果だ〉とみる「価値の制度化」の状況を乗り越え、本来的な学びの復権を図ろうとすることをさすのである。現在の学びは学校に支配されている。結果、〈学習のほとんどが教えられたことの結果だ〉と人々が「学校化」されてしまっているのである。この現状から抜け出ることを、イリッチは「脱学校」と呼んだ。

 

 ここで「脱学校」について再び考察を行いたい。山本哲士はイリッチのdeschoolingを「脱学校」ではなく「非学校」と訳すことを提唱していることは脚注で述べた。山本哲士は次のように語る。

「ディスクーリング」を「非学校化」と訳した政治社会学者、栗林彬氏のみがイリイチを正しく理解していた、日本で唯一人の研究者でした。イリイチの「ディスクーリング」は、学校化された教育にたいして、まったく異なる別の途への転換を意図した「政治転換」であると強調するあまりに、「学校無化」と訳したわたしは、こりすぎでした。(山本哲士『学校の幻想 教育の幻想』253頁)

 山本は、イリッチの「ディスクーリング」という言葉について次のようにまとめている。

この「ディスクーリング」は内容的には〈脱学校〉と〈非学校化〉に分化したというのが、わたしなりの見解です。

 〈脱学校〉のタームとは、学校改革論であり、教育や学習を学校形態の新しいあり方(学校がなくなるのをも含めて)の中でもって、しかも教育のみの水準で語っているのです。それは、様々の多様な〈教育〉実践の可能性を同時に探っています。

 〈非学校化〉とは、社会、政治の転換を語っているもので、そのとき学校は、政治や経済を媒介変数にして変わるのではなく、学校化それ自体の転換が社会全体の根源的な転換となる。つまり学校化という構成は社会そのもののあり方、産業的生産様式そのものであると示しているからです。〈教育〉の再生でなく、むしろ、自律的な〈学習〉の甦生を示そうとしています。(山本哲士『学校の幻想 教育の幻想』254頁)

 イリッチは『脱学校の社会』(山本哲士によれば『学校のない社会』)のなかで、子ども自身/人間個人の「学び」が、「学校」によって失われるということを 批判していた。学校により、人々は「学んだことは教えられたことの結果だ」という大いなる勘違いを行ってしまう。「学校化」されてしまうのだ。
 宋文洲『社員のモチベーションは上げるな!』という本がある。その中に、次の話が出てくる。

 やる気のない人を放っておこう。
 やる気のない部下を許そう。
 これが本書の本質です。
 喉が渇いたら、馬は自ら水を探します。そのときは、馬が真剣に、水の匂いを嗅ぎ分け、道を探すのです。
 水がいらない馬を、川に引っ張っていくことは、ムダなことであり、自己満足にすぎません。
 乾きこそ、モチベーションの源泉です。
 他人に与えられるのではなく、自分で感じ取るものです。
 生きていれば、必ず渇くときがあります。
 他人にモチベーションを上げてもらおうと考えた瞬間に、モチベーションの炎が、あなたの心から消え去ります。(宋文洲『社員のモチベーションは上げるな!』幻冬社、2009

6~7頁)

学校の教育は、いわば水を欲しない馬(子ども)にむりやり水を飲ませよう(学ばせようとすること)とするものである。需要がない所に、無理やり供給をもたらそうとしている。ムダである。これが学校化社会の特徴でもある。
 引用文ではモチベーションを謳っているが、学校においては「学ぶモチベーション」と考えることができるだろう。学校は、無理して子どもに「学ぼうよ」「勉強しようよ」と呼びかける。あるいは恫喝的に「勉強しろ!」「宿題忘れるな!」を叫ぶ。
  これだけで済めばいいのだが、子どもたちは次第に「学校化」される。自分の「学ぶ意欲/モチベーション」を他者に上げてもらおうと考えるようになる。小中 高と、他人から「学べ!」と強制され、結果的に自分から学ぼうとしなくなる。「誰かに言われるから」という自主性のない学びのみとなる。
 現在の大学もそうなっている。高校の延長でやってきているため「自分の研究をしなさい」と言われても「何をすればいいんですか?」「やる気が起きません」とシラッと返す。完全に「学校化」された姿だ。自主性をもった「学び」が起きない。
 筆者は、学問と言うものは「禁止されても、ついついやってしまう」麻薬みたいなものだと考えている。もし私が「本を読むな!」と仮に言われても、こっそり陰で呼んでしまうだろう。学問に志すと言うことは、ある意味麻薬を始めることに似ている。学ばずにはいられなくなる。それが国法として禁止されようとも。
 本来の学びは、これくらい中毒性の強いものなのだ。真に自発的に「学ぶ」意欲が湧いたとき、人間は果てしなく学んでいくものなのだろう。それを無理やり学ばせようとするから、「学べ!」と強制されない限り自分から学ばない「学校化」された個人が誕生してしまう。

 自らの意志すらも学校に預け、「学ぶ」意欲を他人に上げてもらうことを期待すること。これも「学校化」の側面であると考える。

5−3−3、宮台の「学校化」概念。

 上野千鶴子は『サヨナラ、学校化社会』の中で次のように「学校化社会」を説明している。


もともとは、イヴァン・イリイチが『脱学校の社会』(1970)で指摘した現代社会の特徴。学校がその本来の役割を超えて、過剰な影響力を持つにいたった社会のこと。しかし現代日本では、学校的価値が社会の全領域に浸透した社会という、宮台真司が広めた定義のほうが有名である。(50 頁)

 宮台真司の学校化の定義について、『これが答えだ!』では次のように説明されている。

「家や地域までもが学校的価値で一元化されることを私は「学校化」と呼びます」(『これが答えだ!新世紀を生きるための108108答』朝日文庫、2002年、281頁)。

宮台のいう「学校化」の現代的事例は、上野千鶴子の『サヨナラ、学校化社会』に詳しい。その中には大学受験での偏差値をもとに自分を判断し、「どうせ三流大学だから」と卑下する学生や、逆に自分自身を必要以上に高く評価する学生の話が出てくる。事例を紹介した後、上野は「学校化社会とは、だれも幸せにしないシステムだということになります」(57頁)とまとめている。
 イリッチの「学校化」定義と宮台・上野の定義とは若干ニュアンスが異なっている。イリッチは社会が「学校化」されることを主張したが、宮台は学校的価値が社会に吹き出す/浸透する社会のことを主張したのである。

5−3−4、『脱学校化社会の教育学』への批判。

 〈イリッチがいうほどまで制度を変えなくとも、脱学校は可能だ〉、というのが『脱学校化社会の教育学』のテーマである。脱学校化というものの現代的意味についてまとめられている。
 タイトルである『脱学校化社会の教育学』は『脱「近代教育」社会の教育学』と理解するほうが、誤解が少ない。つまり、『脱学校化社会の教育学』の著者たちは近代公教育制度批判と「脱学校」を同じものと見ているのだ。
 先に見てきた通り、イリッチは制度による教育ではなく、教育的関係による教育を訴えたのであった。


学校に依存することにとって代わるということは、人々に学習を「させる」新しい考案物をつくるために公共の財源を用いることではない。むしろ、それは人間と環境との間に新しい様式の教育的関係をつくり出すことである。(136頁)


 この文章のあと、イリッチは「新しい様式の教育的関係」として「学習のためのネットワーク(ラーニング・ウェッブ[5])」を示している。けれど、ラーニング・ウェッブ導入をすることだけが、「教育的関係」を創り出すことにはならないと考える。イリッチは「学校による教育の独占を廃止し、またそのことによって偏見と差別を合法的に結びつける制度を廃止しなければならない」(30頁)といっている通りだ。
 PISAショック以来、フィンランドの教育が着目されるようになっている。フィンランドでは少人数による学びが導入されている。また佐藤学は90年代後半から(つまり浜之郷小学校開学から)「学びの共同体」を実践している。両者は子どもの協同な学びによる授業を行っている(『脱学校化社会の教育学』)。
 イリッチは近代社会を支えるために開発された「近代公教育制度」を批判したのであって、学校それ自体の廃止を訴えたわけではない。日本的文脈では、文科省支配下にある「学校」(学校教育法でいう1条校)による教育を批判しているのである。イリッチは一方的な教員による教え込みを批判している。であれば、そうでない学校、つまり近代学校らしくない学校の導入をこそ展望していたと言える。
 無論、学びの共同体やフィンランドメソッドでイリッチの主張をすべて実現できるわけではない。けれどイリッチの主張に近いのは確かである。

しかし、もともと「脱学校」とは脱構築主義に基づく概念である。脱学校論は「まず学校の解体ありき」の話のため、脱学校論に「学校を解体しないとき、どう改良できるか」を要求するのはお門違いなのだ。『脱学校化社会の教育学』の中において、近代公教育制度批判と「脱学校」は同義として扱っているが、これは大きな誤解である。

『脱学校化時代の教育学』は、根本的に「脱学校」を理解し損ねていることがいえる。「脱学校」とは、イリイチのいう定義に当てはまる「学校」[6]を廃止することを訴えている。そのため、現状の学校内での「教育改革」や「近代公教育批判」をおこなうことは、「脱学校」では語ってはならない事柄なのだ。「近代公教育批判」と「脱学校」は同じではない

 しかしながら、イリイチのいう「学校」にあてはまらない実践をする学校教育なら、「脱学校論」で語れるのではないだろうか。残念ながら『脱学校化時代の教育学』はフィンランドメソッドや「学びの共同体」など、イリイチのいう「学校」に当てはまる実践しか取り上げていない。さらに言えば、この本は幼児教育の本なので、そもそも「学校」を語るのは本題ではない。にもかかわらず、イリイチの「脱学校」をタイトルに使うのは反則ではないか。幼児教育は「幼稚園」でおこなうものであり、「学校」でおこなうものではない。そのため、『脱学校化時代の教育学』はイリイチの「学校」定義を超えた学校の実践を取り上げるべきであったのだ

イリイチの「学校」の定義をこえる教育活動として、一番簡単にイメージできるのは大学であろう。筆者のいる早稲田大学でも、定年後に入学してきた60歳の学生がちらほらいる(イリイチの学校の定義「特定の年齢層」に当てはまらない)。大学は出席しなくても単位が取れる(イリイチの定義「履修を義務づけられたカリキュラムへのフルタイムの出席を要求」に当てはまらない)。イリイチの「学校」に当てはまらないからこそ、彼が〈脱学校化をおこなっても、大学や技術学校は残すべきだ〉と主張しても矛盾は生じないのである。

都立新宿山吹高校という学校がある。この学校は無学年・単位制の高校である。宮台真司らが『学校が自由になる日』内で絶賛している学校だ。異年齢集団が、通学でも通信でも学ぶことのできるのが新宿山吹高校である。これもイリイチの「学校」定義から外れた学校である。

『脱学校化時代の教育学』とのタイトルを使うなら、イリイチの「学校」から外れた学校をこそ、取り上げるべきであったのだ。




5−4、「ラーニング・ウェッブ」とは何か?

 『脱学校の社会』の1〜5章では、「脱学校」に必要な概念をイリッチは提示している。それが「価値の制度化」や「制度スペクトル」、「相互親和型社会」などの概念である。

 なお、「制度スペクトル」や「相互親和型社会」(イリッチはコンビビアルな社会とも呼んでいる)については、イリッチが想定した理想の教育像を提示した概念でもある。

山本哲士『教育の政治 子どもの国家』には次のようにある。なお文中の「非学校化社会」とは『脱学校の社会』という彼の主著のことである。前述のとおり、山本はイリッチのdeschoolingを「脱学校」ではなく「非学校」と訳すことを提唱しているため、このような名称となっている。

教育の主要な目的は、現実にたいする人間のビジョンを形作ることだというイリイチは、学校での教育はコストのかかる制度であり、教育を進歩・発展の神話に従属させるものにして学ぶことを不能化させるだけだとしながらも、人間は本質的に自由であり、本質的自由を自覚しうるとみなしている。非学校化社会のころのイリイチは、制度スペクトルの左側のコンビビアルな可能性をもって学校制度の転換はありうるとみなしていたのが、いまみるとわかる。晩期の完全に不可能性しかみていない状態ではなかった。(山本哲士『教育の政治 子どもの国家』文化科学高等研究院出版会、2009年、205頁)

 『脱学校の社会』6章は、「学習のためのネットワーク」という章である。原著ではlearning websと書かれている。これは、「学校」の廃止後の(つまり「脱学校」したあとの)社会のありかたについてイリッチが説明をしている章である。

『教育思想事典』(教育思想研究会編)の「学校化」の欄で、森重雄は次のように書いている。


真の教育は学校というレイアウトではけっして行うことができず、イリイチのいう、脱学校型の「学習のためのネットワーク」のもとにはじめて可能になる、と考えられていた。この学習のためのネットワークとは、ある知識を必要とする人とその知識を提供できる人をアドホックに結合することであり、それはコンピュータ・ネットワークにもとづくデータベース構築というテクノインフラによって可能となる。ここでは固定的な教師生徒関係は生まれないし、出来合いの知識パッケージを必要な知識であると思いこまされることもない(藤本注 要は「価値の制度化」ということ)。これによって真の意味での教育が可能になるとイリイチは考え、これが真の教育を可能にする脱学校化の具体的な姿であるとして提唱したのである。(89頁)

 ここで「ラーニングウェッブ」という概念について、見ていきたい。

 なお山本哲士は次のように語っている。

〈脱学校〉は〈学習のネットワーク〉(藤本注 『脱学校の社会』では「学習のためのネットワーク」となっている)だと考えられ、ここに結論があるとみなされました。これは、〈物〉〈人〉のアクセス(接近)・交流を、自律共働的な様式の一例として教えるうえで参考にはなりますが、それ以上のものではありません。しかも、その出会いとの関係のイメージは、「網(webs)」であって「ネットワーク」ではないのです。(『学校の幻想 教育の幻想』256頁)

5−4−1、イリッチの描くラーニング・ウェッブ像。

『脱学校の社会』第六章に、「学習のためのネットワーク」をもとに、イリッチの〈ラーニング・ウェッブ〉という概念を整理していく。 

『脱学校の社会』より、イリッチの「ラーニング・ウェッブ」像をまとめる。

 イリッチのラーニング・ウェッブとは、下のような仕組みで行う。

(1)教えたいことがある人が、コンピュータなどに「これを教えたい」と登録する。同様に、学びたいことのある人が「これを学びたい」と登録する。
(2)登録している人どおしを引き合わせる。
(3)教えた分だけ、「教育クーポン」をもらうことができる。また学ぶにあたっては一定量支給されている教育クーポンを使用する。
(4)学校教育にあたる段階においては、この教育クーポンを消費していくことで、教育課程の達成を目指す。(『脱学校の社会』)

 本文中において、イリッチは次のように指摘している。


仲間を選び出すネットワークの運営は、簡単であろう。このネットワークの使用者は、氏名と住所および自分が仲間を見つけたいと思っている活動について記述することである。コンピュータは、彼と同じ記述を打ち込んだあらゆる人々の氏名と住所を彼に知らせるであろう。そのように簡単に役立つものが公的に価値があるとされていた活動(公立学校制度のこと)のために大規模に用いられていなかったことは、驚くべきことである。(『脱学校の社会』170項)

  *(  )内は藤本。


 イリッチは、要するに学びたい人と教えたい人とを引き合わせ、その小集団で教育を行うことを提唱している。これがラーニング・ウェッブの発想の根底である。

 このラーニングウェッブにおいて『脱学校化の可能性』では批判が出ている。これについては、「序論」末尾を参照してほしい。

 現代におけるイリッチのラーニングウェッブの実現可能性を考える上で、方向性は2つ考えられる。

 一つは梅田望夫の主張するような、「学校+α」として考える方法である。既存の学校体系を持続した上で、ブログ等を用い自主的・追加的学習としてラーニングウェッブを想定するものである。

 もう一つはイリッチや内容朝雄のいうような、「学校に代わるもの」として考える方法である。この場合「教育クーポン」(あるいは「教育チケット」や「教育バウチャー」とも言う)を使用することになるが、現在の教育界では「学校内」のみで「教育クーポン」制度を考えることが多い。

5−4−2、ブログ空間はラーニング・ウェッブたりうるか?
 

 本項目では、現代においてラーニングウェッブによる学びの実現可能生を見ていく。なお、あくまでも現在の教育制度を維持した上での考察である。イリッチの考えたラーニングウェッブという概念を、現在の教育においていかす道を考察した内容となっている。


 『私塾のすすめ』梅田望夫・齋藤孝)という本がある。この本のテーマは《ブログ[7]は、適塾・松下村塾のような私塾になる可能性がある》ということである。

本書の内容はイリッチの著書『脱学校の社会』にかかわりが深い。というよりも、イリッチの「ラーニング・ウェッブ」という概念を現代風にアレンジしたとも言える内容となっている。


 イリッチの「ラーニング・ウェッブ」は、ブログを活用することで実現可能なのではないか。この仮説を検討することが本項目の狙いである。 
 本章での私の主張は、あくまで既存の教育制度を維持し、平行する形でのラーニング・ウェッブの成立の可能性を探るものであり、学校制度廃止までを考察したものでないことを付言しておく。

5−4−2−1、『私塾のすすめ』において、ラーニング・ウェッブと共通点の多い箇所

 梅田望夫[8]は『私塾のすすめ』において、次の指摘をしている。ここで語っている「志向性の共同体」は私塾を指し、〈ブログも私塾のようなものにできる可能性がある〉と示している。


梅田:志をもった良き大人、ある志向性を持った大人が、自分はこういう関心をもった人間なんだよ、ということをウェブ上に立ち上げて示していく。科学でも、数学でも、文学でも。そういう「志向性の共同体」がネット上にたくさんできたら、子どもでも、本当に自分の関心のあることをやっている大人たちの集まりに参加することができる。ネットでまずつながり、そしてリアル(藤本注 現実社会のこと)に発展していく。誰もがネット上で、志向性を同じくする若い人を集めて私塾を開くことができるイメージです。それはウェブ時代たる現代ならではのすばらしい可能性だと思うんです。(中略)多くの心ある人が、自分がもっとも大事だと思っている関心事項について、志向性の共同体たる私塾のようなものをネットの上でつくっていくと、さまざまな可能性がひらかれる。
 身近な世界の閉塞感のようなものがあって、時間の使い方もそこで縛られている場合に、良き私塾がもっともっとネットの上にできれば、そこで時間をすごすことができる。ところが、そういうビジョンをネットに関して提示している人が日本にはいない。「ネットというものは怪しげで危ないから子どもを遠ざけよう」という人が圧倒的に多い。今の日本のネットをみて、「怪しげで危ない」と思いたくなるということは僕も否定しないけれど、ネットの可能性を十年、二十年というレンジでみたときに、そうとだけ考えることはマイナスだと思います。
 現実社会でうまくいっている子は別として、そうでない子どもたちは、家に帰っても親との関係だけ、学校に行ってもせいぜい五十人という範囲のなかで、自分とぴったりあった世界をつくれない。今の日本の教育は、そこでうまくいかないとすべて駄目と言われてしまう感じですが、ネットにはそこをひっくり返せる可能性があると思っています。(4446項)


 この梅田の指摘は、ラーニング・ウェッブと親和性を持っている。梅田のいっていることは、イリッチが『脱学校の社会』で語っていることに共通点をもっているのだ。以降において、それを詳しくみていく。

 なお、ここで注意すべきは梅田の主張はあくまでも「私塾」の立場であるという点である。「学校」とは違う存在としての「私塾」であり、「学校」の代替物ではないという点である。

5−4−2−2、ラーニング・ウェッブとブログの共通点について

 ここでは3点に分けて、イリッチの主張するラーニング・ウェッブと、梅田の言う〈ブログによる私塾〉との共通点をみていく。

(共通点1)自主的に学習が進む点

 イリッチが『脱学校の社会』において批判したことの一つに、〈学校制度がある限り、生徒が受動的になってしまうこと〉がある。イリッチは自主的な学びが成立する場としてラーニング・ウェッブを考察したのである。


本章で、私は学校についての考え方をひっくり返すことが可能であることを示すつもりである。つまり、次のことを示したいのである。第一には、学生に学ぶための時間や意志をもたせようとして彼らを懐柔したり強制したりする教師を雇う代わりに、学生たちの学習への自主性をあてにすることができることであり、(藤本注 この文の続きは次の引用である)(『脱学校の社会』136項)


 自らの興味がある分野であれば、自主的に学んでいくことができる。ブログにおいても強制されない分、子どもたちは自主的に興味のあるブログを探し出し、学んでいくはずである。
 
(共通点2)関心の共有が可能である点

 イリッチのラーニング・ウェッブ構想においては、教えたい者と学びたい者とが小集団で集まることで学習を行っている。この発想を実現させるためには〈何に興味があるか〉という関心事項の共有が行われる必要がある。イリッチは情報センターのようなものを設置することで、実現させようとした。ブログにおいては検索を行うことで可能である。

 さきほどのイリッチの言葉の続きを引用する。


第二は、あらゆる教育の内容を教師を通して学生の頭の中に注入する代わりに、学習者をとりまく世界との新しい結びつきを彼らに与えることができるということである。(136項)


 このイリッチの言葉にあるように、ブログを活用することで「新しい結びつき」を作ることができる。この「新しい結びつき」はブログの活用によっても可能である。

(共通点3)比較的、利用が容易である点

 学習するにあたって、教育設備が容易に利用可能であるか否かという点が大きな問題となる。いくらいい教育を行える場所であっても、費用がかさんだり、移動が大変であったりしては、教育を行えないからである。次のイリッチの言葉が示す通りだ。


必要なのは、公衆が容易に利用でき、学習をしたり、教えたりする平等な機会を広げるように考案された新しいネットワークである。(143項)


 イリッチのラーニング・ウェッブ構想では、国立の情報センターのようなものを利用することで学習者と被学習者を引き合わせる。ブログにおいてはインターネットを利用できる環境さえあれば学びを行うことができる。検索し、関心のあるブログにアクセスし、そこにある情報を学んでいくのだ。コメントの記入や直接的にブログ関係者と対面することもあるだろうが、基本はパソコンで出会う形をとる。
 イリッチの構想ではあちこちに情報センターを設ける必要があるが、ブログを活用する場合、設備の準備は特に必要でなく、インターネット利用環境さえあれば事足りる。よって、比較的利用が容易である点は解決されている。

5−4−2−3、ラーニング・ウェッブの悪用についての、イリッチの指摘

 コンピュータを使用し、人を引き合わせる。その弊害は出会い系サイトのような問題が起きる可能性がある。イリッチはそのことにも気づき、以下のように語っている。


もちろんわれわれは、そのような公的な仲間選びの方法が、電話や郵便がそうであったように、搾取的あるいは不道徳な目的のために乱用される可能性のあることを認めなければならない。それらのネットワークの場合と同様に、何らかの防御策が必要である。私は、他の箇所で、尋ねてくる者の氏名と住所のほかには、適切な、印刷された情報だけが利用されるのを認める仲間選びの制度を提案した。そのような制度は、濫用に対して実質的に完全に守られている。他に別の調整をすれば、さらに本、映画、テレビの番組、あるいは特殊なカタログから引用されたほかの項目などを追加することもできよう。そのような制度のもつ危険性に関心をもつあまり、はるかに大きな利益を見失うようであってはならない。(173項)


 着目すべきは、「危険性に関心をもつあまり、遥かに大きな利益を見失うようであってはならない」との指摘である。先に引用した梅田の言にも、同様のものがある。「今の日本のネットをみて、『怪しげで危ない』と思いたくなるということは僕も否定しないけれど、ネットの可能性を十年、二十年というレンジでみたときに、そうとだけ考えることはマイナスだと思います」との部分だ。
 そのため、私は単にラーニング・ウェッブの危険性を指摘するだけでなく、その可能性に目を向けていくことが重要であると考える。

*イリッチは人と人とをつなぎあわせる学び(ラーニングウェッブ)だけでなく、ジュークボックスを町中に置く等、社会での学びが誘発する仕組みについても語っている(『脱学校の社会』)。必ずしも、ラーニングウェッブだけが彼の教育政策案ではない。


5−4−2−4、結論

 イリッチは理想主義者である、ともよく聞く。しかしイリッチに実現可能性がないとされたのは一昔前の話だ。いまはネット空間が存在する。ブログによって個人が情報発信をしていくことができる時代だ。


私がこれから提案しようとしている教育制度は、今日まだ存在していない社会のものである。(同、137項)


 イリッチが主張した教育社会は、当時の教育制度を超えたところにあった。しかし、ウェブ空間が発達した今、イリッチのラーニング・ウェッブ構想はやり方次第ですでに実現可能であるといえる。
 再度言うが、『私塾のすすめ』は端的に言えば《ブログが私塾となる可能性を秘めている》ことを示した本である。ここでいう私塾とは〈教えたい者のもとに、学びたい者がやってくる〉場所である。ラーニング・ウェッブとはまさしく私塾のような存在だ。ラーニング・ウェッブという形でイリッチが提唱した教育は、ある程度までブログの活用により実現可能である。ラーニング・ウェッブよりむしろ、イリッチの思想を反映できている、ともいえる。

5−4−3、イリッチのラーニングウェッブの再考察

 

 先ほど、ブログ空間においてラーニングウェッブの実現可能性についてを考察した。ここでは、『脱学校の社会』にいう「脱学校」を実現するにあたっての考察を行っていきたい。

 『学校が自由になる日』に「学校リベラリスト宣言」という内容がある。この内容は、イリッチのラーニングウェッブ理論を発展させたものだと筆者は考察する。

 それは①教育クーポンを使うという概念があるということ、②学校以外での学びを保障したものであることという共通点があるためである。また教育クーポンに関しては、「学校リベラリスト宣言」の方がより合理的な内容となっている。義務教育という側面を重視した内容となっているのだ。

 ここでは、「学校リベラリスト宣言」の内容の整理を行った後、イリッチとの共通点/相違点、イリッチの「ラーニングウェッブ」を発展させた点を指摘する。その後、ラーニングウェッブ実現にあたっての課題を提示する。

5−4−3−1、「学校リベラリスト宣言」の内容。

(1)「学校リベラリズム宣言」の狙い

 内藤朝雄は『学校が自由になる日』掲載の「学校リベラリスト宣言」の著者である。「はじめに」の部分において「宣言」の構成を述べている。

中間集団全体主義という考え方を踏まえて、学校で構造的にはびこるいじめや、生徒が共同体の感情奴隷(あるいは共生奴隷)とでもいうべき境遇におかれてしまう事態を問題にしていきます。(中略)次に自由な社会について考え、改革のプランと未来構想を示します。(内藤朝雄「学校リベラリズム宣言」、宮台真司ほか『学校が自由になる日』雲母書房、2002年、192頁)

 結果的には、引用文後段の「改革のプランと未来構想」の部分がイリッチの言う「ラーニングウェッブ」構想に類似するものとなる。

 ここで着目すべきは、この「宣言」は学校現場のいじめ問題や「生徒が共同体の感情奴隷」となる状態の解決を目的に書かれたものであるということだ。

 まず、中間集団全体主義についてを検証していく。

戦後日本社会では、国家全体主義がおおむね弱体化したにもかかわらず、学校と会社を媒介して中間集団全体主義が受け継がれ、人々の生活を隅から隅までおおいつくしました。すなわち、国家から会社や学校といった中間集団共同体に全体主義の座が移動したわけです。(内藤朝雄「学校リベラリズム宣言」、宮台真司ほか『学校が自由になる日』雲母書房、2002年、196頁)

他者と距離を置く(あるいは縁を切る)自由がないとき、人生は悲惨になります。こういう者を「いやだな」と思ったときには、いつでも距離を調整でき、内蔵の匂いを嗅がされるような生々しいかかわりを拒否できることが大切です。(中略)やろうと思えば関係を簡単に切断することができ、そのうえで自分にフィットしたさまざまな「大切な=縁を切ることなど思いもよらない」関係を模索できる社会は、「生きやすい」そして「美しい関係を形成しやすい」社会です。(内藤朝雄「学校リベラリズム宣言」、宮台真司ほか『学校が自由になる日』雲母書房、2002年、215頁)

 内藤は、いじめや学校の過ごしにくさの理由として、学校に中間集団全体主義があるということを指摘する。「宣言」ではこの中間集団全体主義の検証後、既存とは異なる「教育制度の根本的改革案」を提示している。

 なお、イリッチも内藤が指摘した点を『脱学校の社会』において指摘をしている。

学校は最悪の状態にあるときには、学級の仲間全員を同じ部屋に集め、数学、公民、および綴字などを(個人差を無視して)全員に全く同じ順序で教えるのである。学校が最良の状態にあるときは、個々の生徒は、いくつかの限られたコースの中から一つのコースを選択することが許される。しかしとにかく学校では、教師の目標を中心に、同年齢者の集団が形成されるのである。それに対して望ましい教育制度の下では、一人一人の活動が特殊かされ、その活動のためにそれぞれが仲間を捜すというようなものになろう。

 たしかに、学校によって子供たちは家庭を離れ、新しい友だちに出会う機会が与えられる。しかし、それと同時にこの過程を通して、子供たちは一緒にされた同年齢者の中から友だちを選ぶべきだと観念を教え込まれる。(『脱学校の社会』168頁)

 「子供たちは一緒にされた同年齢者の中から友だちを選ぶべきだ」という「観念」の「教え込」み。いわば隠れたカリキュラムである。内藤が「学校リベラリズム宣言」で語っている中間集団全体主義とは、〈クラス内で友人を作らないといけない〉〈クラス内は仲良くしないといけない〉というメッセージに基づいて、常に周りの「ノリ」を気にしなければならない状況のことを指摘している。イリッチの指摘と同じである。

 先のイリッチの文章の続きには、このようにある。

これに対し、若者に、彼がまだ幼い頃から他の人に会い、その人を評価し、あるいはまた他の人を捜し出すなどの魅力を感じさせるならば、彼らに新しいことをするために新しい相手を見つけるということへの関心を一生涯、持ち続けさせる準備となろう。(同168頁)

 これはフリースクール(東京シューレ)を思い起こす光景だ。特定のクラスという集団の構成員と、無理やりでも仲良くしなければならない状態を、内藤は「中間集団全体主義」と呼んだ。そして、この「中間集団全体主義」こそが凄惨ないじめの原因であると指摘しているのである。

(2)「学校リベラリズム宣言」の、「教育制度の根本的改革案」

 

 ここから、イリッチのラーニングウェッブ構想に近い概念が登場する。なお、内藤のプランは義務教育と権利教育の二つに分けられるが、ラーニングウェッブ構想に近いのは権利教育の方である(特に、その中の「クオリティ・オブ・ライフ系」が近い)。

 イリッチとの違いとして、学習内容の整理を行う所から記述がはじまっている。

まず義務教育と権利教育を分けます。義務教育は強制してでも身につけさせなければならない基本に関して子どもの保護者に義務を課すタイプの教育です。ここで義務教育の「義務」を、次の二つに限定します。

 ①(a)生活の基盤を維持するのに必要最低限の日本語と、(b)お金をつかって生活するのに必要最低限の算数と、(c)身を守るための法律と公的機関の利用法に関する、国家試験を受けさせる親の義務。②国家試験に落ち続けた場合には教育チケットを消化させる親の義務。義務教育の「義務」はこの二つだけです。子どもに試験を受けさせない場合と、子どもが試験に落ち続けているにもかかわらず教育チケットを消化しない場合に限って、保護者は処罰されます。(内藤朝雄「学校リベラリズム宣言」、宮台真司ほか『学校が自由になる日』雲母書房、2002年、250頁)

 この①の(a)(c)の内容について、「ナショナルミニマム」と呼ぶことができるであろう。義務教育内で最低限必要とされる学習内容のことである。岡本薫は「すべての子どもたちに必要なこと」と呼んでいる。

「すべての子どもたちに必要なこと」は、「すべての国民」の意見やニーズを踏まえて、最終的には、憲法のルールに従い国会によって特定されるべきものだ。したがって、まず、PTA、市民団体、経済団体、学界、職能団体、各政党などが、それぞれ、断片的・抽象的でなく総合的・具体的な提案を行うべきである。

 これは「ナショナル・ミニマム」と呼ぶべきものだが、規制緩和・自由化・分権化の時代においては、各自治体が、ナショナル・ミニマムを超える「ローカル・ミニマム」を独自に設定することも検証すべきだろう。(岡本薫『日本を滅ぼす教育論議』講談社現代新書、2006年、103104頁)

 ナショナル・ミニマム(後述する山下の文章でいう「社会人人格を最低限担えるだけのコード」も指す)とは、強制してでも学ばせなければ、個人が社会で生きていくことが困難とされる、社会が個人に規定する学習内容である。イリッチのラーニングウェッブ構想では、ナショナル・ミニマムを想定してはいなかった。

 ここでいう教育チケットについての説明は、次の引用文内に書かれている。

教育チケットは教育のみに利用できる特殊貨幣で、義務教育用と権利教育用の二種類があります。義務教育用チケットは国家試験に合格するまで無制限に与えられます。権利教育用チケットは、収入に対して逆比例的に行政から配分されます。この逆比例傾向を強くすることによって機会の平等を確保することができます。もちろん通常の貨幣を使用することもできます。(内藤朝雄「学校リベラリズム宣言」、宮台真司ほか『学校が自由になる日』雲母書房、2002年、250251頁)

 注目すべきは①「国家試験」の存在と、②「義務教育」と「権利教育」に内容を分けること、③「権利教育用教育クーポン」の配分は「収入に逆比例」することである。イリッチの「ラーニングウェッブ」の欠点を解消するのが、ここに指摘した3点であろう。

 ①について見てみる。イリッチは『脱学校の社会』の中で、制度化された学び(学校化)を批判した。それは「教えられたことを学んだことの結果だと考える」ことの弊害を謳ったものである。

 『脱学校の社会』においてイリッチは中国の科挙制度を評価する。それは学んだ課程を全く考慮しないことの意義を謳った制度であるためだ。

(『脱学校の社会』から「科挙」の部分を引用する)

 イリッチのこの引用文を見るならば、個人の能力を把握する上で「国家試験」を実施することは非常に意義深いことであるといえる。

 なお、現状では高卒認定試験や中卒認定試験[9]がすでに存在している。

 ②について見てみる。山下和也の文章には、社会が子どもに学んでほしいコード(つまりナショナルミニマムの知識)を学ばせなければ社会が成立していかない、と指摘し、次のようにまとめている。

将来どの人格を担うにしろ、その社会における社会人人格を最低限担えるだけのコードを前もって習得させておく必要が生じ、そのために特化した教育システムが分化してきました。これがつまり普通教育です。(山下和也『オートポイエーシスの教育』近代文芸社、2007年、123124頁)

 ここにある「社会人人格を最低限担えるだけのコード」というものが、ナショナルミニマムの知識を指す。ナショナルミニマムの知識を子どもに習得させる際、「学校での教育があわない」と主張する子どもたち(不登校の子どもたち)にも適合した教育内容が必要となってくる。

 「不登校の子どもの権利宣言」という文章がある。これは筆者も参加した「全国子ども交流合宿『ぱおぱお』」(期間 2009年8月22日〜23日、会場 早稲田大学)のエンディングにおいて採択された文章である。「不登校の私たちの権利を伝えるため、すべてのおとなたたちに向けて私たちは声をあげます」(前文)との意志を持って採択されている。この文章は、実際に不登校の子どもたちが話し合い、まとめたものである。この2条と3条、7条を引用する。

二、学ぶ権利

私たちには、学びたいことを自身にあった方法で学ぶ権利がある。学びとは、私たちの意志で知ることであり他者から強制されるものではない。私たちは、生きていく中で多くのことを学んでいる。[10]

三、学び・育ちのあり方を選ぶ権利

私たちには、学校、フリースクール、フリースペース、ホームエジュケーション(家で過ごし・学ぶ)など、どのように学び・育つかを選ぶ権利がある。おとなは、学校に行くことが当たり前だという考えを子どもに押し付けないでほしい。

七、公的な費用による保障を受ける権利

学校外の学び・育ちを選んだ私たちにも、学校に行っている子どもと同じように公的な費用による保障を受ける権利がある。

例えば、フリースクール・フリースペースに所属している、小・中学生と高校生は通学定期券が保障されているが、高校に在籍していない子どもたちには保障されていない。すべての子どもが平等に公的費用を受けられる社会にしてほしい。(インターネット上に書かれているURLを記入のこと)

 この文章の「三、学び・育ちのあり方を選ぶ権利」を保障するものが、内藤のいう教育チケット制度であると考える。学校と違い強制されない学びというものに目を向けていく必要があると考えられる。

 最後に③について見ていく。引用文内に「機会の平等」という概念があった。宮台真司の著書では〈教育において結果の平等を求めることは不可能で、機会の平等を確保することが必要〉との趣旨のものがあった(文献名を探すこと)。結果の平等の実現は、個人の能力に差がない社会でなければ実現不可能である。結果の平等を目指す政策は、個人の能力差に全く着目をしていないため無意味な政策であると考える。結果の平等よりも必要なのは、出生した場所・両親の学歴や所得に関係なく、「能力に応じて等しく教育を受ける」(日本国憲法)権利を確保することである。そのため、両親の収入という「能力に応じ」ない要素により教育機会が阻害されないために「権利教育用チケットは、収入に対して逆比例的に行政から配分され」るという政策が必要となってくる。

 内藤によれば、この教育チケット制が導入されることで「さまざまな学習サポート団体が街に林立し、学習者は質のよい団体を自由に選択し、チケットを渡します」(同、251頁)という現象が見られるようになる。

義務教育の国家試験に合格するために、どんな学習の仕方をしようと自由です。各人は試行錯誤しながら、自分に馴染んだ学習スタイルをつくり上げます。さまざまな学習サポート団体は、その試行錯誤のために「街に出てチケットを使ってみよう」と誘惑します。(同、251頁)

 筆者は「街に出てチケットを使ってみよう」と誘惑するもののひとつに、フリースクールなどの「子どもの居場所」的施設も含むことが出来るのではないか、と考察する。

 内藤はこの制度を導入することで、本来的な学びの回復を図ることができると指摘する。たとえば、「知力の低い子どもには、現在の学校をはるかに超えた質の高いサービスが提供される」(同、251252頁)のと同時に、自主的に学習を進める子どもが「何年間も無意味に学校のいすに座り続ける拷問から解放される」(同、252頁)のである。個に応じた学習が可能になるというメリットがある。

 また、現状の学校では教員やクラスメイトの顔色を伺いつつ過ごすという無意味な努力(ひどければいじめ)を行わざるを得ない状況があるが、それを回避できるという点もメリットであろう。内藤のいうように、他人を伺いつつ過ごすこと(学級のメンバーとクラス内で無理やり閉じ込められること)と、学びを行うことは全く異なるものなのである。

 内藤の『〈いじめ学〉の時代』(柏書房、2007年)にも、教育チケットについて言及が「未来の教育制度」(217頁)として紹介されている。「国家試験に受かるためにどんな勉強の仕方をしようと自由ですし、必ずしも学校で勉強することを選択する必要もありません」(218頁)と書かれている。この記述から見ればフリースクールなどの場所での学習も可能だ、と見なされているようだ。

 なお、権利教育について、内藤の文章を見てみよう。

権利教育は、当人が自己の意志によって参加する権利を有する教育です。権利教育は生涯教育に含めます。年齢制限はありません。権利教育の対象は子どもから老人までのすべての市民です。また権利教育の場所は、老若男女が混じる市民的な空間です。さまざまな年齢の人たちが混じり合って、対等な市民として交際するのが市民状態です。

 ここで人生初期限定の義務教育を縮小した分(藤本注 「義務教育」チケットは必要最低限の教育しか扱っていない。このことを指す)、その何倍も権利教育を拡大します。学校教育から生涯教育・社会教育への重点移動を、教育を受ける権利の拡大として行うのです。(『学校が自由になる日』252頁)

 権利教育は生涯教育[11]とも連動した教育である。さきほどの「義務教育」用の教育チケットよりもイリッチのラーニングウェッブ概念に近いものとなっている。「義務教育」の場合、チケットを使うのはラーニングウェッブで出会う人というよりも学習塾の形式に近いものがイメージされるためである。

 権利教育について、内藤の『〈いじめ学〉の時代』に簡潔な説明が掲載されている[12]ので、そこから内容をまとめる(『〈いじめ学〉の時代』219220頁)。

 内藤は権利教育を①「学術系」、②「技能習得系」、③「クオリティ・オブ・ライフ系」の3つに分ける。①と②の「学術系と技能習得系はいずれも国家試験や業界団体試験の合格を目的としており、職業キャリアの形成にも大いに関係のあるものです」(同)と述べている。①と②の記述をさらにまとめる。

①「学術系」:「『学をつける』ことを目的とします」・「これまでの学校で必修科目だった外国語、理科、歴史、地理などの分野も含んで」いる。

②「技能習得系」:「『手に職をつける』ことを目的としています」・「職種に応じた技能系の資格をえるためのもの」。

 ①が現状の学校教育のうち知育に関するものであるなら、②は職業教育に関するものである。

 ③だけは異なっている。「この部門は、芸術やスポーツ、旅行など、学ぶ人の興味に従って様々なことを楽しむためのもの」となっており、「クラブ活動、部活動」に似ている。けれど「生徒はここでただ楽しみを享受するのが目的となります(試験はありません)」とある。「各地に林立する市民クラブが母体」となり、「クラブを自由に選び、行ったり来たりすることが可能」になる。「そこでの親睦や、人間関係の試行錯誤を通じて、子どもたちは自分に相応しい、人生のスタイルを模索していくことになります」というのが内藤のプランである。社会教育的活動が重視されている。

 重要なのは「どのクラブにも同時に並行して参加でき、興味がなくなったクラブには、その日から行かなくても全く構いません」という点である。先に内藤の中間集団全体主義の話をした。人々が自由にクラブを行き来するとき、中間集団は固定されない。イヤな相手とも仲良くしないといけない状態は起こらない。

 イリッチ思想を専門的に考察している山本哲士の文章をみていると、イリッチは教育自体にも疑いを持っているようである。人が教育をうけることは本当に必要なことなのか、と。

 内藤は近代社会を生きるうえで必要最低限のナショナルミニマムを習得することを重要視する。

最低限範囲の試験に子どもが落ち続けた場合、個人指導の『教育チケット』を消化することも、保護者に対しては義務づけられます。子どもが試験に落ち続けているのにこのチケットを消化しない場合に限って、保護者は処罰されます」(『〈いじめ学〉の時代』

218頁)

 けれど、フリースクール経験者のHさんの話を聞く限り、その必要性を疑うように思ってきた。Hさんは18歳までひらがなが書けなかったという。いまはそれを習得し、書けるようになったが、「ひらがなを長い間書けなかったけど、そんなに困らなかったよ」とのことであった。親を処罰する必要性が本当にあるのだろうかとの疑問を抱く。

 「学校化」のところで引用した宋の文章を再度引用する。

 喉が渇いたら、馬は自ら水を探します。そのときは、馬が真剣に、水の匂いを嗅ぎ分け、道を探すのです。
 水がいらない馬を、川に引っ張っていくことは、ムダなことであり、自己満足にすぎません。
 乾きこそ、モチベーションの源泉です。
 他人に与えられるのではなく、自分で感じ取るものです。
 生きていれば、必ず渇くときがあります。
 他人にモチベーションを上げてもらおうと考えた瞬間に、モチベーションの炎が、あなたの心から消え去ります。(宋文洲『社員のモチベーションは上げるな!』幻冬社、2009

6~7頁)

 学びを不必要だと思う人間に対しフリースクール(特に東京シューレ。海外ではサドベリーバレースクールなど)は無理に学びを行おうとしない。のんびりと、ゆっくり過ごすことを推奨することすら行う。子どもが「学びたい」と思うまで「待つ」姿勢を貫かれているのだ。だからこそ、時間が経つかもしれないが、宋の文章で言う「乾き」が起こるのだろう。乾きをいやすために水を飲むとき、馬は脇目をせずに一心不乱に飲み続ける。「乾き」が起きた時の学びもそれと同じであろう。

 『不登校という生き方』に「進学先を選択する」という項目がある。フリースクールに通う子どもたちのうち、高校・大学への進学を希望する子どもたちについて書いているところである。奥地は「志望した人のかなりが高校や大学に受かっています。そしてどうやらついていけるようです。もちろん、受験をすると決めたら、少しは、または熱心に本人が勉強しています。しかし、学校に行っていた子と比べ、圧倒的に勉強量の差はある。それでも合格するし、ついていける」(『不登校という生き方』127頁)と述べている。その理由は何故か。

 これは、「ヒロベン」(広い勉強のこと)をしているからです。何をしていても広い意味で勉強になっています。テレビ、本、マンガ、新聞、ゲームなどでも、知識、認識は広がっています。そういった土台があり、必要な時に勉強をやれば身につくのだと思います。予備校に行く、学習塾に行く、家庭教師に来てもらうなどの方法を取った人もいるし、一人で勉強して合格した人もいます。

 ポイントは、本当に進学したいのかどうか、ということでしょう。入りたい目的がはっきりしていることも重要です。やりたいことには、自然にエネルギーが出るからうまくいきます。実際、わが家でも、東京シューレでも、それほど長い期間ではないですが、猛烈に勉強に取り組む姿をみました。感心したのですが、何のことはない、それまでのいっぱい休息し、遊び、充電している子が不登校には多いですから、いざ、本気でやろうという時には、すごいエネルギーが出るわけです。(『不登校という生き方』127128頁)


 宮台真司の描く自伝的エッセイの中にも、高校三年生までは遊んでいた生徒の方が受験の直前になると、ずっとコツコツ勉強していた生徒の成績を抜くという話が出てくる(『日本の難点』か?)。重要なのは学ぶ気がないとき(「乾き」がないとき)は無理して学ばせないことであろう。真に水を欲した際、「すごいエネルギーが出る」ことになるのであろう。

(3)内藤朝雄と藤田英典の論争。

 早稲田大学教師教育研究所が20098月1日におこなったシンポジウムがある。テーマは「学力低下・いじめ・学級崩壊から学級・学校の創造へ」であった。パネリストは藤田英典(国際基督教大学)・菊地栄治(早稲田大学)・内藤朝雄(明治大学)である。

 このシンポジウム後半において、藤田と内藤の論争が行われた。これは会場の聴衆も巻き込んでの議論となった。テーマは「学校での教育を減らし、社会教育を広げていくべきか、否か」である。

 内藤が「学校教育の予算を減らすか、そのまま保った状態で、社会教育に予算を与えよ」と主張をした。そして子どもたちが学校教育か社会教育を選択していけるようにすることを提唱した。学校では学問的な内容のみを教授し、「美しい」教育実践は社会教育に移し、子どもと大人が一緒に学ぶ方がいいのではないか、とまとめた。ちょうど「学校リベラリズム宣言」と同様の趣旨である。

 藤田はそれに対し、ドイツの現状を示した。先進国の中で最も少年非行が多い国はドイツである。そうなった理由は何故か、と問うたのだ。ドイツでは社会教育を教育制度として導入していた。その結果、企業による徒弟教育制度などが行われはじめた。はじめはうまく回っていたが、90年代の金融危機で社会教育費が真っ先に削られた。企業も協力的ではなくなった。そのため、教育の受け皿を失った青少年が非行を行うようになったのだ、と説明した。

 このシンポジウムの内容は、イリッチのラーニングウェッブの実現可能性を考える上で重要な要素を持つと考える。一方的に資本主義に教育を任せたとしても、決して成功するわけではないのだ、という点である。企業にメセナを求める動きがある。ある意味、徒弟制度の導入などの社会教育は「メセナ」である。社会教育という公共性があるためだ。けれど、メセナは不況下ではあまり行われなくなる。

 [メセナの活動が]一番活動が華やかだったのは一九八〇年代後半のバブル期で、各社がイメージアップに力を入れていました。一九八七年に当時の安田火災(現・損保ジャパン)がゴッホの「ひまわり」を五八億円で購入したのが象徴的な出来事でした。

 しかし、バブル崩壊後の経営悪化の中で資金的な余裕がなくなった企業は、スポーツ支援や文化・芸術支援をどんどん削減して来ました。(山本冬彦『週末はギャラリーめぐり』ちくま新書、2009

[  ]内は藤本。

 経済不況下においても、教育は続いていく必要がある。企業のメセナ活動やCSR活動の一環として社会教育を任せ、それでよしとする姿勢は危険な態度となる。

 スポンヴィルの『資本主義に徳はあるか』という本がある。資本主義は経済合理性に伴う思想であるため、資本主義に人間性や「徳」を求めるのはお門違いなのだ、と説いた本である。このドイツの現状は、まさに資本主義に徳を求めた(教育を任せた)ゆえに起きた出来事であった。

 シンポジウム内で、内藤は藤田に批判を試みる。聴衆(現職教員も多い)から内藤への批判も起こる。最終的に内藤自身が〈経済状態が良い状態でしか実践できない改革だ〉と答える結果となる。シンポジウムの結論的には、経済不況下においてプライベートセクション(私企業など)が教育を請け負うのは危険だという藤田に、内藤が押し切られる形となったのである。

ただ、議論中に「教育クーポン」という「学校リベラリズム宣言」の概念が出ていなかった。教育クーポン制度導入の上で行うならば、税金により社会教育も行われるので、好況/不況に関わらず実践可能なのではないかと筆者は感じた。そうすれば先の〈メセナは不況下では行われなくなる〉という危険性を回避することができるのである。

 なお、梅田のいうブログによる私塾は、「学校+α」の内容なので、特に経済不況を考慮する必要はない。「学校」という基本的教育制度は残っているからだ。費用も電気代やネット使用料程度しかかからない。

(4)フリースクールにおける教育クーポン(あるいは教育バウチャー)の意義。

 教育クーポン制度については、フリースクール関係者にとって、つながりが深い事柄である。筆者は2年前に東京シューレ代表の奥地圭子にインタビューを行ったことがある。その中にも教育バウチャー制度導入の話があった。(『不登校という生き方』も参照)

 現在の教育界において教育バウチャー制度は批判されることが多い。それは新自由主義に基づくため格差拡大につながるという批判や、学校選択制と同時に導入されるので学校の淘汰がはじまり公教育の危機を迎える、などの批判である。『学校選択と教育バウチャー』には学校選択制と教育バウチャー制度が連動しやすい政策であることがまとめられている。本書には教育バウチャー制度の仕組みとして「学校」を選択し、そこに教育バウチャーを渡すと述べられている。けれど、後述するようなフリースクールなどの民間の「学び舎」でもバウチャーが使用できるようにするという発想は全く述べられていない。『学校選択と教育バウチャー』において、教育バウチャーは「学校」のみに使用するもの、という発想から抜け出てはいない。

 『現代用語の基礎知識』2009年度版には「教育バウチャー」として、次のように立項されている。

教育バウチャー 児童・生徒(保護者)に対して、学校教育負担のうち一定の公費負担相当額を利用券・切符として支給し、学校はその在学者数に応じて配分を受けられるようにする仕組み。実際に利用券・切符を発行しなくても、在学者数に応じた公費助成の仕組みに変えることによって、公立、私立、株式会社立、NPO立など経営形態の異なるサービス提供主体間の競走場権が同一化され、競争を通じた豊かなサービス提供につながるとされる。(鈴木眞理・勝野正章「教育・学校」、『現代用語の基礎知識』2009年度版、自由国民社、2008年、907頁)

 『現代用語の基礎知識』の定義では、フリースクールなどの民間の「学び舎」でも教育バウチャーが使用できる制度であると読めなくもない。実際のところ、東京シューレ葛飾中学校などフリースクールが作った「学校」も出てきた今、学校教育法で定めている「学校」ではないフリースクールに、教育バウチャーを使用することはできない、とする自明性が疑われてきているように感じられる。

 本来は《学習する場所を子どもが選ぶ》ということに基づいた概念であったことを忘れてはならないだろう。もう一つの流れとして、格差是正という側面がある。低所得者層の子弟が、私立学校に行けるようにするための制度としての考え方である。これに対して『学校選択と教育バウチャー』の著者は次のように述べている。

香港のレポートやアメリカの具体例に見られるように、社会的に不利な立場にある家庭の子どもを対象とした教育バウチャー制度もあり得るかも知れない。しかし、これも後で分析するように、教育バウチャー制度導入論者にはその意識はなく、競争主義の導入をもっぱらの目的としている。(嶺井正也・中川登志男『学校選択と教育バウチャー』八月書房、2007年、110頁)

 学校以外の学び場(あるいは「居場所」)にも、子どもが選択した時に資金がまわるシステムであるならば、不登校の子どもへの税制の不平等が解消されることになる(「不登校の子どもの権利宣言」の第3条「学び・育ちのあり方を選ぶ権利」、第7条「公的な費用による保障を受ける権利」も参照)。フリースクールに通う子どもの保護者からの税金によっても、公立学校は運営されている。しかし、フリースクールには国からの支援(私立学校ならば「私学助成金」が出ている)がないため、税制の不平等が起きているのである。

 奥地圭子の発言を引用する。なおこの文章は2007年に私が奥地にインタビューを行った際の音源を文章に起こしたものである。奥地の発言の中には安倍晋三内閣以前の教育バウチャー制度導入に向けての文科省の行動の様子と、首相の交代で教育バウチャー制度案自体も変化していった様子が詳細に語られている。

学校バウチャーってありますよね。あれだって学校の中だけで格差をつけて、予算を変えるシステムですよね。自民党のいうバウチャー制度の対象にフリースクールは入らないんですよ。昔、『不登校という生き方』に書いてたころはバウチャーは、私たちフリースクールにもくるはずだったんです。ところが安倍内閣に代わってから、バーっと変わっちゃって。

教育再生会議ができましたよね。あの辺からね。その前は私たちフリースクールの人間も文科省に呼ばれていたんですよ。「あー、文科省も変わってきた」、って(感じました)。フリースクール懇談会を、文科省が金を出して北海道から九州までフリースクールの人たちに旅費を出して「集まってください」、て(実施したんです)。よく見たんですよ、(その)文章を。(そのあと)で、文科省から電話がかかってきて、「出席されますか」(と聞かれ、)「もちろん」って(答えました)。20団体呼ばれたの、第1回(は)。「(フリースクールの)現場で感じてる話を聞かせてください」と(質問を受けました)。(文科省の役人は続けて)「いまや、国が進めている教育政策だけで応じられる時代でなくなった、と認識しております。皆さん方がすごく苦労して子どもたちを支えていることはよく聞いています。直に、どんなことを感じているか話してください」(と言いました)。これをね、3回やったんですよ。計60団体から聞いているわけです。私はそのとき、公的な支援をお願いします、ということと、外国でバウチャーというものやっているので、(日本において)バウチャー制度を取り入れれば、「うちの子不登校になったときはフリースクール」というときに、そのバウチャーから入るお金でフリースクールに通うことができるじゃないですか(この2点を話しました)。こういったら、「ちゃんとバウチャーを検討しています」と(相手は答えました)。だから「NPOとかフリースクールも、どうすればちゃんといくか検討してます」、といってたんですよ、文科省(の役人)は。ところが、政治が変わるとすぐ(教育行政も)変わるんですよ。安倍内閣になっちゃって、文部大臣も変わるし、教育再生会議とか教育基本法を変えるとか。(中略)

安倍内閣が変えたときにバウチャー(制度は)すっかり消えちゃったんですよね。バウチャー(制度)はあるんですけど、学校の中だけで、成績優秀なところに出す(というものになりました)。少ないところ(成績が優秀でない学校)にはあんまり(予算を)まわさない。だから足立区で学力テストの不正事件があった。あれは(学校にとっての)死活問題なんですよね。カネが来るか来ないかが。私たちはね、「おかしいな」(と思います)。もし(教育が)うまくいっていない学校があったら、そっちにこそ手厚いお金を出すべきでしょ。(成績優秀な学校は)うまくどんどん学習するし、うまくできてるんだったら、そうじゃない学校(成績の悪い学校)にお金を回すべきでしょ。格差が広がる方向に考えてるんですよね。驚いちゃってね。それって、本当に一人ひとりの子どもたちがいて、多様な成長を支える責任が国にあるのに、国は無責任だな。私なんかからいえば国は無責任。

そういう風になっちゃって、バウチャー制度は変わっちゃった。この本(『不登校という生き方』)にある内容は変わっちゃったんです。だからいろんな党の議員に言ってるんだけど、バウチャーを格差が広がる方向に使うんじゃなくて、格差解消でいろんな子どもたちが使いやすいように、フリースクールのところにも回るようにする。財源がないから回りませんじゃなくて、仕組みを作ればうまくいく。仕組みをかえれば(いい)。親たちが税金を払っている。そこから、フリースクールなどにもお金が回るようにする。フリースクールに行く子の分、払った税金を使うというのは今財源(が)なくてもできるんですよ。ところがずるいことに不登校の子の分も、学校は税金を使っちゃって学校を運営してるんですよ。(200710月のインタビュー、テープ起こしは藤本)

*(  )内は藤本。

5−4−3−2、「学校リベラリスト宣言」とイリッチの共通点・相違点。

 イリッチは社会の中での学びについて、積極的に発言をしている。たとえば工場にその作業工程を示した展示をつくることで、子どもが勝手に学習を行える仕組みづくりをすることを訴えている(『脱学校の社会』あるいは『シャドウ・ワーク』)。そのため、教育

5−4−3−3、子どもの学習の発動は自主的判断によって行われるのか? それとも強制か?

 山下和也の『オートポイエーシスの教育』という本がある。ルーマンの社会システム論のキー概念である「オートポイエーシス」理論をもとに、教育を再考するという本である。

 本書において山下は、2通りの教育コミュニケーションが存在していることを説明する。ひとつは、「全体としての社会システムの期待される人格一般としての人格の担い手の育成を期待する」普通教育コミュニケーションである。もうひとつは「特定の社会システムの特定の人格の担い手育成を期待する」専門教育コミュニケーションを意味する(117頁)。

 現在では、普通教育コミュニケーションは最低限必要な基準であると考えられている。いわゆる義務教育である。社会の一員となるに当たり、「ないと困る」レベルの内容である。ナショナルミニマムと言い換えることができるであろう。一方、専門教育コミュニケーションは、個人に応じ要求されるものが異なってくる。山下の言葉を使うと、将来担う人格に応じて専門教育コミュニケーションの中身は変わっていくのである。

 この言葉を説明した後、山下は次のように語る。これはイリッチの「学習のためのネットワーク」(ラーニング・ウェッブ)の欠点を指摘したものだ。

 将来どの人格を担うにしろ、その社会における社会人人格を最低限担えるだけのコードを前もって習得させておく必要が生じ、そのために特化した教育システムが分化してきました。これがつまり普通教育です。技能教育のネットワーク化を唱えて学校を否定するイリッチが見落としているのがこの点で、何を学ぶべきかが個人個人にわかっていないからこそ、学校による普通教育が必要なのです。独学の困難は学ぶべきことの選別にこそ存するのですから。(山下和也『オートポイエーシスの教育』近代文芸社、2007年、123124頁)

山下の言葉のうち、個人は「何を学ぶべきか」「わかっていない」という点が印象的だ。内田樹の語り口を思い出す。『大人のいない国』において、内田は次のように語っている。

「学び」というのは、自分がこれから学ぶものの意味や価値がまだわからない、だから「学び」を通じて、自分が学んだことの意味と価値を事後的に知る、という時間の順逆が逆転したかたちの営みだからです。(鷲田清一・内田樹『大人のいない国』プレジデン社、2008年、15頁、内田の発言より)

ある程度学びが進まない限り、「これを学びたい!」という感情が起こることはない。この点についてだが、フリースクールの理念を思い出すと、いささか疑問も感じられる。

 フリースクールの「自由な教育」は、「勉強しない自由」も認めている。奥地圭子のいう「ヒロベン」(広い勉強)が行われているから、いまは遊んでいてもいいのだ、という態度である。なお、佐藤学のことばを使うなら、奥地が「ヒロベン」というとき、「勉強」というより「学び」が起きていると考えた方がいいだろう。

「ヒロベン」(広い勉強のこと)をしているからです。何をしていても広い意味で勉強になっています。テレビ、本、マンガ、新聞、ゲームなどでも、知識、認識は広がっています。(『不登校という生き方』127128頁)

 『超・学校』に紹介されたサドベリー・バレースクール[13]の実践も、「ヒロベン」である。生徒達は何をしてもいい。一日中、釣りを続けてもいいし、学校に来なくてもいい。「これを学べ」とは決して教師が言わず、「これを授業して下さい」と子どもがいうまで、教師はものを教えない。「教育とは待つということだ」という言葉があるが、サドベリー・バレーはそれを地でいく学校(語弊があるなら「学び場」か?)である。

 サドベリー・バレーのようなフリースクール(あるいはデモクラティック・スクール)において、「普通教育」を行っているといえるのか? 「ヒロベン」という便利な言葉を使うなら、「ヒロベン」を「普通教育」と考えられるのだろうか? 山下は学校内での、制度としての授業を「普通教育」と考えてるようだが、制度によらない「ヒロベン」を「普通教育」ととらえてもよいのであろうか?

 フリースクールなどの「自由な教育」の中で、「最低限必要な学習」が行われることを説明できるなら、いま以上にフリースクールが教育界で重視される存在となると考えることができる。

 けれど自分で書いておいてこう言うのもどうかとは思うが、この結論はフリースクールの命取りともなるような気がしてならない。イリッチは「価値の制度化」という状況への批判を『脱学校の社会』で行ってきた。イリッチのいうラーニングウェッブやフリースクールに、「普通教育を行いなさい」と伝えることは、フリースクールの「フリー」さを損ねる結果となるのではないか。「教えられたことを学んだことの結果だと考える」のが価値の制度化、「学校化」現象であることはすでに述べた。「自由」がウリのフリースクールに、「これを行いなさい」ということは「価値の制度化」といえなくもない。

 方向性としては、いまフリースクールで繰り広げられている学びを、山下の言う「普通教育」ととらえていくという姿勢が必要となるのだろう。東京シューレなど「フリースクール全国ネットワーク[14]」(通称 フリネット)加盟団体であればこの考え方でいい。

 ただし、これは団体に入っているからOK、というわけではない(それでは「価値の制度化」である)。団体加盟の際に、加盟条件に適った団体かをチェックする機能が働いているからOKとみなすのである。対象のフリースクールにフリネットの理事が赴き、無理に子どもに教育を与えようとする組織は、外されている。このチェック機能にも残念ながら穴がある。加盟後に不適切な行動をしはじめる団体へのチェックを行えない点だ。実際、フリースクール全国ネットワークの活動を見てみると、フリネットの諸活動に参加しない団体へのチェック機能がないように思う(フリネットにボランティアをしている筆者からの視点)。また「総会」やその他活動にフリースクールの代表者が参加していても、適切なフリースクール運営をしているかを、フリネットのメンバーが確認することはほとんどない。加盟数が50に満たない現在は、それでも運営されるかもしれない。けれど、数が増えて超えてくると、誰も実体を知らない組織が加盟団体内に存在することになる可能性がある。絶えず加盟団体の行動をチェックする機構がフリネットに存在するのか否か。それが今後のフリネットの発展の鍵であると思う。

 話が脱線したが、フリースクールだから「普通教育」が「ヒロベン」の名で行われているのだろう、と思うことに危険が伴うのだと筆者は考えているのである。下手に「フリースクールには『普通教育』を制度としては取りいれない」とした場合、「フリースクール」という名称が名ばかりとなっているような学びの場(後述する丹波ナチュラルスクールなど)に対し、「もっと○○な教育を行いなさい」と指示を行えないことになってしまう。

 この問題も、自称「フリースクール」と、「フリースクールの理念に合致した真のフリースクール」が明確に区別され、第三者機関によって評価される時代が来たら、解決するであろう。現段階では「フリースクール全国ネットワーク」加盟のフリースクールを、典型的な「フリースクール」であると考えておくのが無難なようである。

 なお、「フリースクール全国ネットワーク」などのフリースクール諸団体については、「6、補講」を参照されたい。

*丹波ナチュラルスクールについて。あるいは、フリネットとマスコミとの「フリースクール」認識の乖離について。

 2008年に問題になった丹波ナチュラルスクールについて見てみる。この事件の概要についてを、フリースクール全国ネットワークが2008925日に出した「丹波ナチュラルスクール暴行事件に関するアピール」から見ていく。

ひきこもりや不登校・家庭内暴力などの子ども・成人を寄宿させ預かる『丹波ナチュラルスクール』の経営者らが、99日京都府警に逮捕されました。きっかけは、入所者ら12人が鍵つきの部屋に監禁されていましたが、そのうち17日間の怪我を負った女子中学生が脱走し、コンビニにかけこみ、店員の通報で南丹署に保護された事からでした。以後、この施設の日常的暴力、食事、入浴、トイレなどの非人間的扱い、拉致と呼べるような「お迎え」、入所直後従順にさせるための暴行などの実態が次々と明るみに出されました。また、親の面会は初期3ヶ月は禁止、面会も本堂に限られ、生活場面は見せられず、月謝は10万~20万、入所時に200万~350万円の多額な費用が入用でした。(フリースクール全国ネットワークWEBサイト内「丹波ナチュラルスクール暴行事件に関するアピール」

http://www.freeschoolnetwork.jp/sekaikaramita.htm 2009827日参照)

 この引用文のあと、同「アピール」では次のように述べられている。

また、丹波ナチュラルスクールは、フリースクールと報道されていますが、それについても問題を感じます。丹波ナチュラルスクールは系列としては、かつて似た人権侵害をひきおこした戸塚ヨットスクール、不動塾、風の子学園、アイメンタルスクールと同様、矯正施設といえます。日本にフリースクールが誕生した1980年代、誰も戸塚ヨットスクールなどのことをフリースクールと呼ぶ人はいませんでした。しかし、90年代様々な不登校の受け皿が増えるにつれ、不登校の子どもが行くところがフリースクールと呼ばれるようになり概念の混乱が生じています。(フリースクール全国ネットワークWEBサイト内「丹波ナチュラルスクール暴行事件に関するアピール」

http://www.freeschoolnetwork.jp/sekaikaramita.htm 2009827日参照)

現状のマスコミがフリースクールとの名称を使用していることへ批判を行っている。

なお2009827日付けの読売新聞ネットニュース

http://osaka.yomiuri.co.jp/news/20090827-OYO1T00502.htm?from=main1)では「京都府京丹波町のフリースクール『丹波ナチュラルスクール』」と記載し、丹波ナチュラルスクールも「フリースクール」であると説明をしている。

「フリースクール」に対しフリネットの認識と、一般マスコミの認識との間には乖離が起きている点が重要な点である。

、イリッチの「脱学校」に対する私の批判。

 これまでイリッチの『脱学校の社会』をもとに、各種の考察をしてきた。イリッチは「脱学校」(山本哲士ならば「非教育」)を訴えることで本来的な学びの復権を訴えている。
 けれど、学校という「装置」はなかなかに優れたものであるといえる。まったくやる気のない生徒でも、何かしらを学ばび、読み書きやコミュニケーション能力についてを修得する場所だからである。黙って席に座る能力や、上司の言に従順にしたがう態度を身につけることができる。近代社会が要求する主体を生産する場所として、「学校」は有意義な装置なのだ。宮台真司は現代が「近代成熟期」であると述べている(『これが答えだ!』など)。近代が要求する主体は、近代成熟期においてもある程度存在する意義があるのではないだろうか。

たとえ教科の内容はまったく理解できなくても、生徒は学校で勉強することで知らず知らずのうちに、時間の厳守、おとなしく着席している忍耐力、あたえられたノルマをはたそうとする動機づけ、規則や上位者の命令に服する秩序感覚、他人と協調してゆく能力といった、総合的「道徳」能力を学んでいるわけである。(森下伸也『社会学がわかる事典』日本実業出版社、2000184頁)


 イリッチは学校によって「学び」ができなくなるという、「価値の制度化」を主張した。けれども、筆者は学校が無くなった社会で、教育クーポンを〈ぽん〉と渡されて「自由に学んでいいよ」といわれたとき(ちょうどイリッチ主張する、ラーニングウェッブの世界だ)、途方に暮れそうな気がしてならない。自由はしんどい。誰かに「何を学ぶのか」決めてもらうほうが簡単だ。佐藤学などの教育学者は「子どもは学びたがっている」という説をよくとるが、筆者は疑いの目を持っている。強制されない限り、学ぼうとしない子どももいるはずである。諏訪哲二は、子どもに「学び」を発動するためには「啓蒙」の教育が必要であると主張する。

諏訪哲二にみる、「啓蒙」の教育

 『間違いだらけの教育論』において諏訪哲二は、映画『奇跡の人』に描かれたヘレン・ケラーとサリヴァン女史の関係を元に教育論を語る。「野生」的本能丸出しであった少女ヘレンに、サリヴァンはスプーンとナプキンを使うことを強制させる。ヘレンにとってそういったものは「不合理な文化(外部)」であった。

それでもサリヴァン先生は執拗にちからずくでその方式をヘレンに押し付ける。固体の外部に構築される文化(作法)は、個体にとって合理的ですらないのだ。その不合理な文化(外部)を受け入れさせられることによって、ひと(個体)はひと(個人)になるのであろうか。ここが「啓蒙」としての教育の出発点である。(諏訪哲二『間違いだらけの教育論』光文社新書、2009年、10頁)

 これにより「ヘレンは生まれてはじめて外部を積極的に認めざるをえなくなった」(同11頁)。ここから「奇跡」が始まり、ヘレンの人間的成長が始まっていく。

 この後、諏訪は「『啓蒙』の教育は上下関係のないところで成立するはずがないのだ」(同17頁)と述べる。教師-生徒という上下関係があるからこそ、子どもが近代的理性をもった近代人に「啓蒙」されるのだ、と説明している。

 

日本の子ども・若者たちのある特徴的な人たちは、物理的に「見えて」「聞こえて」「しゃべれる」にもかかわらず、ヘレン・ケラーのように外部や文化やルールを受容する手立てを精神的に奪われている。外部に一度屈服していないから、全能感的な「この私」的な自己感覚の支配下にあり、外に表示し生活する「私」(近代的個人)になっていない。彼らを取り巻く環境に「啓蒙」としての教育が強力に働いていないとも言える。(諏訪哲二『間違いだらけの教育論』光文社新書、2009年、25頁)

 ここまでが『間違いだらけの教育論』の「序論」に書かれている。諏訪の言う「啓蒙」の教育を発動させるには「外部に一度屈服し」、「全能感的な『この私』的な自己感覚の支配下」から脱する必要がある。本論において諏訪は、近代的理性をもった近代的個人を生み出すのが学校の役割であるとして、諏訪は論を展開していく。 

 「おわりに」において諏訪は言う。

識者の多くが教育論において躓くのは、子どもが自ら学ぶ主体としてそこに「いる」ことから議論を始めてしまうからです。ひとは学ぶべきもの、子どもは本来的に学ぶことを望むものと固く信じているからなのでしょう。(…)学ぶ者となるためにはまず「啓蒙」としての教育の局面が理屈ぬきに必要です。そこから子ども(ひと)は「文化」としての教育、そして、「真理」としての教育に進んでいけるのだと思います。(諏訪哲二『間違いだらけの教育論』光文社新書、2009年、229頁)

 この「啓蒙」としての教育が、ヘレンがサリヴァンから受けた「外部」の存在に自覚し、「学ぶ」という意欲を持ち始めることなのである。諏訪のいう「啓蒙」としての教育も、ある意味でナショナルミニマムとしての義務教育に入るであろう。

 ただ、フリースクールを専門に研究している学徒として、筆者は諏訪の語りに疑問を持っている。この「啓蒙」を行う場所としてフリースクールを想定してもよいはずだが、諏訪は学校で教師が行うことに固執している点である。

 

 カトリックとプロテスタントの違いを自殺から考えたのがデュルケームであった。カトリックは教会を通じて神とつながるが、プロテスタントは聖書を通じて各個人が直に神とつながる。プロテスタントはどこまでも個人の問題になる分、しんどくなり、自殺するものがカトリックよりも多くなる(『自殺論』)。これを、学びという側面に応用してみよう。学校のある社会がカトリック、ない社会(イリッチのいう脱学校の社会)がプロテスタントだ。自発的に学ぼうとする人間にとってプロテスタントのほうが気楽でいい。けれど自発性の少ない人間(たとえば筆者など)にとってはカトリックこそ気楽でいい。確かに教えられる内容に不満はあっても、制度に対し不満をぶつけ、愚痴ることができる。プロテスタントではそうはいかない。学ぶ内容全てが自己決定。「自分が悪かった」という後悔をし、自分を責める方向のみに進んでいく。
 イリッチのいうように、一概に「学校」の廃止を主張は出来ないのではないだろうか。

 そもそも、近代における「学校」は近代的理性を持った「国民」育成のために作られた「装置」であった。義務教育制度の拡充により、近代を支える人間の養成が図られたのである。命令に従順に従い、時間を守り、勤勉な国民育成を行っていくのがその中身である。この「命令に従順に従う」「勤勉な」人間は、イリッチのいう「学校化」された人間の姿でもある。命令に従う人間は、自分の頭で考えることをしない。他律的態度を身体化していく。フレイレの言う「銀行型教育」と同じく、知識を溜め込むだけで活用することができない(フレイレ『』)。または山本哲士の次の指摘が正しいだろう。

自らは何もなしえないのだという主体化によって、制度へ従属する利が保証される。学校化において自律性を麻痺させた分だけ、資格の所有へと規格化・規範化された個人は、社会生活においても制度機関・制度システムへの従属が、給与の取得を含めて自らに有利であると判断し、自ら事を興すこと(制度そのものを変えること)は絶対的にしない「主体化」を再生産し続ける。自律性の麻痺は自分のためであるという〈自己〉の形成が、学校教育装置ほどうまくいく場はない。(山本哲士『教育の政治 子どもの国家』文化科学高等研究院出版局、2009年、120頁)

 けれど、現在は近代成熟期(ポストモダン[15])である。近代において要求された態度、つまり「学校化」(イリッチ)されたあり方だけが要求される時代ではなくなった。


5−5、イリッチのフリースクール観。

まず、イリッチの「学校」観について再確認する。先に書いたように、イリッチは「学校」の定義として、「特定の年齢層を対象として、履修を義務づけられたカリキュラムへのフルタイムの出席を要求する、教師に関連のある過程」(『脱学校の社会』59頁)と書いている。この定義に当てはまる「学校」の批判をイリッチは訴えたのである。

学校に就学させることによってすべての人に等しい教育を受けさせるということは、できない相談なのである。学校の代わりになる制度をもって試みても、それが現在の学校の様式に基づく限りは、やはりできないであろう。(『脱学校の社会』2頁)


 注解では「学校の代わりになる制度」について「フリー・スクール、オープン・スクールその他の新しい学校作りの試みがなされるようになってきた。しかしその多くは組織形態こそ従来の学校と異なっていても、あくまで学校の論理で考えられている」(6頁)と書かれている。どうやらイリッチはフリースクールに対しても懐疑的なようである。しかし、東京シューレやサドベリー・バレースクールのようなフリースクールに「学校の論理」が働いているというのは、何を持って言える点であるのだろうか? これらの学校は少なくとも、『脱学校の社会』においてイリッチのいう「学校」の定義から外れた教育機関である。
 先の引用文には「現在の学校の様式に基づく限り」という留保がついている。とすればフリースクールやオープンスクールともまったく違う、ラーニングウェッブによる学び以外でイリッチの理想を実現することはできない、ということなのであろうか。
 なお、『脱学校の社会』には「社会の中での学び」(引用元を確認のこと)である。イリッチは学校を廃止し、その後にラーニングウェッブを作ることを提唱している。




6、補稿

 本論中で、フリースクールの全国組織についての言及を行った。ここでは、フリースクールの全国組織について比較研究を行った結果を述べる。

フリースクールに関しての全国団体には3つがある。日本フリースクール協会とフリースクール全国ネットワーク、日本オルタナティブスクール協会の3つである。はじめに、日本フリースクール協会とフリースクール全国ネットワークの比較を行う。
 両者は何が違うのかを比較してみる。

 はじめに日本フリースクール協会(JFSA)からみていきたい。こちらは「日本初のフリースクールのネットワーク団体」と謳っている。自団体についての説明を見る。http://www.t-net.ne.jp/~eisei/jfsa/jigyou/jigyou.htmlより。


1998
5月に発足したNPO法人日本フリースクール協会は「不登校」・「引きこもり」等に対して、学校教育の枠にとらわれない「学びの場・居場所作り」を目指して活動している教育機関です。活動は年間数回のセミナー・相談会を実施しております。

 続いてフリースクール全国ネットワーク(通称 フリネット)を見てみる。フリネットは世界フリースクール大会(IDEC)が2001年に日本で開催された際、集ったフリースクールが結成した組織である。なお、筆者はフリネットでボランティアを2009年4月から行っている。フリースクール全国ネットワークのWEBから引用する。http://www.freeschoolnetwork.jp/#%E3%81%8A%E3%81%97%E3%82%89%E3%81%9B

NPO法人フリースクール全国ネットワークは、日本全国の、子どもの立場に立ち活動するフリースクールをつなぐネットワーク団体として200123日に誕生しました。各地のフリースクール・居場所、または世界中のフリースクールとの架け橋として活動しています。

 発足年では日本フリースクール協会の方が3年ほど早い。
 続いて、加盟団体数を見てみる(20094月現在)。日本フリースクール協会は41団体である。一方、フリースクール全国ネットワークは45団体。若干ではあるが、フリースクール全国ネットワークの方が多い。
 加盟団体で見ると、日本フリースクール協会にはサポート校などの「学習」寄りのものが多い。「対人関係の回復」など、学校復帰色が強い。また「このフリースクールではこういうことが学べます」という、学習重視的視点を謳っているフリースクールが多くある点が印象的である。

一方、フリースクール全国ネットワークは「過ごす」ことを重視したフリースクールが多い。「子どもの居場所」というワードが、各フリースクールの紹介に多く上がっている点からも明らかだ。子どもが自由に過ごし、学びたいときに学び、遊びたいときに遊び、帰りたいときに帰る。フリースクール全国ネットワークにはこういう色が強い。

なお、フリースクール全国ネットワーク側は、日本フリースクール協会に対し、批判的な立場にある。『フリースクールとはなにか』の記述を引用する。

最近、日本のフリースクール事情は新しい状況に直面している。前述したようなフリースクールではなく、これまでのフリースクールの概念を混乱させる、新手のかたちのフリースクールが出てきている。それは、学習塾・予備校、サポート校などの塾産業が、フリースクールを名乗り始めたことからくる。それらの団体が連携し、日本フリースクール協会を立ち上げ、大手マスコミもそちらを記事にするなどして、親・市民・子どもから見て、フリースクールとは何かがよくわからない状況になってきている。(中略)学校補完業としての塾産業は、学校と並立してオルタナティブ性をもっていたフリースクールと異なる位置にあったにもかかわらず、フリースクールを名乗ることにより、フリースクールの学校下請化の危険性を高めてしまっている。(NPO法人東京シューレ編『フリースクールとはなにか』教育史料出版会、2000年、33頁)

 続けて『フリースクールとはなにか』では、「少子化のあおりを受け、立ちゆかなくなった塾産業は、さまざまな生き残り策を講じ始めたが、その一つが、激増する不登校・高校中退をターゲットにすることであった」(同、33頁)と述べている。フリースクール全国ネットワーク所属のフリースクールは「子どもの居場所」という側面から活動を開始したのに対し、日本フリースクール協会は営業目的で活動を始めたということを批判しているのである。そのため、「東京シューレとはとても教育観が異なり、(日本フリースクール)協会には参加しなかった」(同、34頁、(  )内は藤本)とまとめられている。

しかしながら、「フリースクール@なります」と「ポケットフリースクール」というフリースクールは両団体に加盟をしている。両団体の壁は意外に薄いのかもしれないと感じる。

 最後に、日本オルタナティブスクール協会(JASA)を見てみる。

これまでの学校教育における、「いじめ」「不登校」「校内暴力」などの様々な歪みや弊害を改革するための教育活動を行い、全国に広がっている通信制サポート校。
その通信制サポート校が、厳しいガイドラインを設け、自主規制を行いながら、行政や社会に対して認知活動を行うことを目的に、1996年、全国通信制サポート校協議会を発足させました。そしてこの協会が、より幅広い活動をするために、またより明確に会のあり方を示すために、2000年3月1日付をもって 名称を変更し「日本オルタナティブスクール協会」とし、現在に至っております。(日本オルタナティブスクール協会WEBサイト
http://www.jasa.ne.jp/about/index.html

こちらは日本フリースクール協会以上に、サポー[16]の集まりという色がハッキリ出ている。8「校」が加盟。日本オルタナティブスクール協会は、はっきりと「加盟校」という。学校扱いなのだ。学校色の薄いフリースクールならば「団体」という言い方をよく使う。現にフリネットや日本フリースクール協会は「団体」の名称を使用している。

「学習」寄りか、「過ごす」(あるいは「子どもの居場所」)寄りか。「学習」寄りの順に並べると、日本オルタナティブスクール協会・日本フリースクール協会・フリースクール全国ネットワーク、となる。日本オルタナティブスクール協会と日本フリースクール協会は学習寄り・「学校復帰」という側面が強い。けれど、フリースクール全国ネットワークは「過ごす」「子どもの居場所」としての側面が大きい。子どもの自主性に応じて、勉強するのもしないのも自由という考え方が強いのだ。

筆者は「子どもの居場所」を重視する側面から、フリースクール全国ネットワーク加盟の団体を典型的なフリースクールとして考えている。それは、ニイルが作った世界初のフリースクールであるサマーヒルスクールに近いからである。子ども自身が何を学ぶのかを考えていく態度。これこそが、フリースクールが「フリー」を名乗る原点となると考えるからである。


、終論

 「学び・育ちのあり方を選ぶ」ことが不登校(ことばが「不幸」という語の響きに近いため、「可哀想」と思われやすいのだろうか)の子どもの権利宣言に描かれている。これを実現可能にするものとして、ラーニングウェッブ構想を考えていった。

 先日、友人のHさんと話をした。彼は小学1年のときに不登校になり、中学位から東京シューレに8年間行ったそうである。今年の春にシューレを辞めて、会社で働きはじめた。私より一つ下の20歳である。彼は「18歳になるまで、文字は読めるけどひらがなは書けなかった」と私に話した。

 現状の教育制度では彼のような存在が「あってはならない」ものだと考えてきた。本論のなかにあった「義務教育の内容は習得させよう」という内藤の教育チケット構想について見ていったが、この構想に印象的に示されている。

 文字の読み書きが出来ないと、人は不幸になる。だから、無理やりでも教えなければならない。普通はこう考えられている。けれど、本当であろうか。Hさんは「ひらがなが書けなくてもあんまり困らなかったよ」と軽く話していた。案外、そのようなものかもしれない。

 フレイレは学校廃止を主張したが、その理由として「何年もの長期にわたって厖大な公費を投じてなされる公教育による教育的な結果は、ほんの六週間程度の成人識字教育によって充分はたしうる」(山本哲士『学校の幻想 教育の幻想』174175頁)からであると説明した。いつ文字を学ぶかと言うことも、本人の自由で決めてすらいいのではないか、とHさんの話から思うようになった。

岡村先生は「フリースクールを出た後どうするかが大切」と言っておられた。奥地圭子が東京シューレやフリネットを作って以来、フリースクール出身者も参画するコミュニティが作られつつあるように思う。東京シューレが主体となったものにフリースクール出版会や全国不登校新聞社がある。そこで働くスタッフは東京シューレ出身者が多い。先述のHさんも、シューレの友人の父が経営する会社で働いている、と聞く。
*参考資料:「不登校の子どもの権利宣言」

不登校の子どもの権利宣言

前文

私たち子どもはひとりひとりが個性を持った人間です。

しかし、不登校をしている私たちの多くが、学校に行くことが当たり前という社会の価値観の中で、私たちの悩みや思いを、十分に理解できない人たちから心無い言葉を言われ、傷つけられることを経験しています。

不登校の私たちの権利を伝えるため、すべてのおとなたちに向けて私たちは声をあげます。

おとなたち、特に保護者や教師は、子どもの声に耳を傾け、私たちの考えや個々の価値観と、子どもの最善の利益を尊重してください。そして共に生きやすい社会をつくっていきませんか。

多くの不登校の子どもや、苦しみながら学校に行き続けている子どもが、一人でも自身に合った生き方や学び方を選べる世の中になるように、今日この大会で次のことを宣言します。

一、 教育への権利

私たちには、教育への権利がある。学校へ行く・行かないを自身で決める権利がある。義務教育とは、国や保護者が、すべての子どもに教育を受けられるようにする義務である。子どもが学校に行くことは義務ではない。

二、 学ぶ権利

私たちには、学びたいことを自身に合った方法で学ぶ権利がある。学びとは、私たちの意思で知ることであり他者から強制されるものではない。私たちは、生きていく中で多くのことを学んでいる。

三、 学び・育ちのあり方を選ぶ権利

私たちには、学校、フリースクール、フリースペース、ホームエデュケーション(家で過ごし・学ぶ)など、どのように学び・育つかを選ぶ権利がある。おとなは、学校に行くことが当たり前だという考えを子どもに押し付けないでほしい。

四、 安心して休む権利 私たちには、安心して休む権利がある。おとなは、学校やそのほかの通うべきとされたとこれに、本人の気持ちに反して行かせるのではなく、家などの安心できる環境で、ゆっくり過ごすことを保障してほしい。

五、 ありのままに生きる権利 私たちは、ひとりひとり違う人間である。おとなは子どもに対して競争に追いたてたり、比較して優劣をつけてはならない。歩む速度や歩む道は自身で決める。

六、 差別を受けない権利 不登校、障がい、成績、能力、年齢、性別、性格、容姿、国籍、家庭事情などを理由とする差別をしてはならない。

例えばおとなは、不登校の子どもと遊ぶと自分の子どもまでもが不登校になるという偏見から、子ども同士の関係に制限を付けないでほしい。

七、 公的な費用による保障を受ける権利

学校外の学び・育ちを選んだ私たちにも、学校に行っている子どもと同じように公的な費用による保障を受ける権利がある。

例えば、フリースクール・フリースペースに所属している、小・中学生と高校生は通学定期券が保障されているが、高校に在籍していない子どもたちには保障されていない。すべての子どもが平等に公的費用を受けられる社会にしてほしい。

八、 暴力から守られ安心して育つ権利

私たちには、不登校を理由にした暴力から守られ、安心して育つ権利がある。おとなは、子どもに対し体罰、虐待、暴力的な入所・入院などのあらゆる暴力をしてはならない。

九、 プライバシーの権利 おとなは私たちのプライバシーを侵害してはならない。

例えば、学校に行くよう説得するために、教師が家に勝手に押しかけてくることや、時間に関係なく何度も電話をかけてくること、親が教師に家での様子を話すこともプライバシーの侵害である。私たち自身に関することは、必ず意見を聞いてほしい。

十、 対等な人格として認められる権利

学校や社会、生活の中で子どもの権利が活かされるように、おとなは私たちを対等な人格として認め、いっしょに考えなければならない。子どもが自身の考えや気持ちをありのままに伝えることができる関係、環境が必要である。

十一、 不登校をしている私たちの生き方の権利

おとなは、不登校をしている私たちの生き方を認めてほしい。私たちと向き合うことから不登校を理解してほしい。それなしに、私たちの幸せはうまれない。

十二、 他者の権利の尊重

私たちは、他者の権利や自由も尊重します。

十三、 子どもの権利を知る権利

私たちには、子どもの権利を知る権利がある。国やおとなは子どもに対し、子どもの権利を知る機会を保障しなければならない。子どもの権利が守られているかどうかは、子ども自身が決める。

二〇〇九年八月二十三日

全国子ども交流合宿「ぱおぱお」参加者一同

データの引用は以下のURLより行った。

http://www.freeschoolnetwork.jp/kenrisengen090823.pdf2009828日参照)


8、参考文献(著者名順)

青木久子・磯辺裕子『脱学校化社会の教育学』萌文書林、2009

アンドレ=コント=スポンヴィル著、小須田健/C=カンタン訳『資本主義に徳はあるか』紀伊国屋書店、2006

イヴァン=イリッチ著、東洋・小澤周三訳『脱学校の社会』東京創元社、1977

イヴァン=イリッチ他著、松崎巖訳『脱学校化の可能性』東京創元社、1979

.イリイチ著、玉野井芳郎・栗林彬訳『シャドウ・ワーク』岩波書店、2006

岩内亮一・本吉修二・明石要一編集代表『教育学用語辞典 第四版』学文社、2006

上野千鶴子『サヨナラ、学校化社会』太郎次郎社、2002

エヴェレット・ライマー著、松居弘道訳『学校は死んでいる』晶文社、1985

NPO法人東京シューレ編『フリースクールとはなにか』教育史料出版会、2000

地圭子『不登校という生き方』NHKブックス、2005

岡本薫『日本を滅ぼす教育論議』講談社現代新書、2006

齋藤孝・梅田望夫『私塾のすすめ ここから創造が生まれる』ちくま新書、2008

諏訪哲二『間違いだらけの教育論』光文社新書、2009

宋文洲『社員のモチベーションは上げるな!』幻冬社、2009

田中智志『教育学がわかる事典』日本実業出版社、2003

ダニエル=グリーンバーグ著、大沼安史訳『「超」学校』一光社、1996

全国不登校新聞社編『この人が語る登校拒否』講談社、2002

内藤朝雄『〈いじめ学〉の時代』柏書房、2007

パウロ=フレイレ著、小沢有作ほか訳『被抑圧者の教育学』亜紀書房、1979

宮台真司・藤井誠二・内藤朝雄『学校が自由になる日』雲母書房、2002

宮台真司『これが答えだ!新世紀を生きるための108108答』朝日文庫、2002

森重雄「学校化」、教育思想研究会編『教育思想事典』

森下伸也『社会学がわかる事典』日本実業出版社、2000

山下和也『オートポイエーシスの教育』近代文芸社、2007

山本哲士『教育の政治 子どもの国家』文化科学高等研究院出版局、2009

山本哲士『学校の幻想 教育の幻想』ちくま学芸文庫、1996

山本冬彦『週末はギャラリーめぐり』ちくま新書、2009

梅田望夫WEBサイトhttp://www.mochioumeda.com/

NPO法人日本フリースクール協会WEBサイトhttp://www.japan-freeschool.jp/

日本オルタナティブスクール協会WEBサイトhttp://www.jasa.ne.jp/about/index.html

NPO法人フリースクール全国ネットワークWEBサイト

http://www.freeschoolnetwork.jp/

同サイトより「不登校の子どもの権利条約」

http://www.freeschoolnetwork.jp/kenrisengen090823.pdf

同サイトより「丹波ナチュラルスクール暴行事件に関するアピール」

http://www.freeschoolnetwork.jp/sekaikaramita.htm

 本稿執筆にあたっては、親友の大中崇正君の手助けを多く受けた。彼と行った『脱学校の社会』読書会の議論が、本論文作成に大きく貢献している。この読書会は、大学時代の愉しい思い出となるであろう。

 

 執筆にあたりご指導いただいた岡村先生、本当にありがとうございました。



[1] 後述する『学校が自由になる日』中に、学校での中間集団全体主義の弊害の具体例が書かれている。この中間集団全体主義のクラス内での表出と、「学校化」された学びが学校内に広がる状態に「気持ち悪さ」を感じたのであった。

[2] 「6、補稿」を参照。

[3] 『フリースクールとはなにか』には「世界フリースクール大会」の話が掲載されている。「大会をそう呼んだのは私たちの勝手であり、正式には『International Democratic Education Conference』略してIDEC(アイデック)と大会名が付けられている」(4頁)との記述があり、デモクラティックスクールを日本流に「フリースクール」と解釈していることが読み取れる。

[4] 山本哲士はイリッチのdeschoolingを「脱学校」ではなく「非学校」と訳すことを提唱している(『学校の幻想 教育の幻想』)。

[5] なお、「学習のためのネットワーク」は、原文では「learning webs」と書かれている。本論文では「学習のためのネットワーク」でなく、ラーニング・ウェッブと表記する。それはlearning websを「学習のためのネットワーク」と表記すると、特定の意味が付与されてしまうことを恐れるためである。

[6] イリッチは「学校」を、「特定の年齢層を対象として、履修を義務づけられたカリキュラムへのフルタイムの出席を要求する、教師に関連のある過程」(『脱学校の社会』59頁)と定義している。

[7] ブログについて、IT用語辞典e-Wordsでは、次のように説明されている。

「ブログとは、個人や数人のグループで運営され、日々更新される日記的なWebサイトの総称。内容としては時事ニュースや専門的トピックスに関して自らの専門や立場に根ざした分析や意見を表明したり、他のサイトの著者と議論したりする形式が多く、従来からある単なる日記サイト(著者の行動記録や身辺雑記)とは区別されることが多い」http://e-words.jp/w/E38396E383ADE382B0.html2009817日参照)

[8] コンサルティング会社「ミューズ・アソシエイツ社長。パシフィカファンド共同代表。()はてな取締役」梅田望夫WEBサイトhttp://www.mochioumeda.com/より。

[9] 『フリースクールとはなにか』において、この中卒認定試験制度導入は不登校の子どもに無用なプレッシャーをかけてしまう、と批判している。現在ではフリースクールへの参加日数を中学の登校日数として計測する中学校も多い。また中学校においても、留年者を出さないために入学後3年で、不登校の子どもであっても卒業資格を与える所がほとんどである。『フリースクールとはなにか』では、現状を見たときに「中卒認定試験を通らないと卒業資格を与えない」という脅しを中学校が不登校の子どもに与えてしまう可能性を危惧している。

[10] この「生きていく中で多くのことを学んでいる」とは奥地圭子のいう「ヒロベン」にあたると考えられる(『不登校という生き方』)。

[11] 『教育学用語辞典』によれば、「生涯教育は生涯を通じて人間的、社会的、職業的な発展をはかるためにおこなわれる生涯学習を援助する営みで、生涯学習は生涯を通じて意識や行動様式の変容をおこなう一連の活動のこと。ただし両者を同義語のように使うこともある」(山本恒夫「生涯教育・生涯学習」128頁)とある。内藤の引用文を見ると、この箇所は生涯教育というよりも生涯学習と考える方がよいであろう。他者に指導/援助されてクラブ活動を行うわけではなく、市民の意思で作られるサークルでの活動であるためだ。もっとも「両者を同義語のようにつかうこともある」とあるため、厳密に考える必要性もないかもしれない。

[12] 『学校が自由になる日』(2002)にも説明があるが、『〈いじめ学〉の時代』(2007)の内容の方がより容易な説明となっている。また、前者では「豊富な生の享受系」という用語が、後者では『クオリティ・オブ・ライフ系』となっている。発行年の新しいものを優先するため、ここでは『〈いじめ学〉の時代』から説明を行うことにした。

[13] 『超・学校』に紹介されている学校。(概要を書く)

[14] 「6、補稿」を参照。

[15] ポストモダンの定義は多数あるが、本稿では宮台真司の定義に従うものとする。それはポストモダンを〈近代を超えたもの〉と見るのではなく、「近代成熟期」あるいは「後期近代」とみるあり方である(宮台真司『これが答えだ!』)。

[16] サポート校について、日本オルタナティブスクール協会のWEBサイトには「通信制高校の卒業資格取得をサポートしていく教育機関です。学業不振生徒・不登校生徒・高校中退者等を受け入れている学校です」(http://www.jasa.ne.jp/support/index.html)とある。

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