2010年2月16日火曜日

イリッチ『脱学校の社会』の現代的意義の考察 ~「学校化」「脱学校」「価値の制度化」「ラーニング・ウェッブ」の定義の考察~

0、扉の言葉

学ぶということを、学校はもとより教育そのものからも切り離すこと、これがなされたとき、教師も子どもも若者もはじめて解放されるといえる。親も、解き放たれる。何からか? 他律支配と他律依存の規範社会からである。けだし、この自律の自由は国家にとっては最大の脅威となる。それは、国家が無用になることにかかわるからだ。

(山本哲士『教育の政治 子どもの国家』文化科学高等研究院出版局、2009年、153頁)

1、はじめに

 イヴァン・イリッチIvan Illich[1]1926—2002)の著書『脱学校の社会』(原題:The Deschooling Society)。この書は、脱学校論を説いたことで有名な著書である[2]。「就学義務が大多数の人々の学習する権利をかえって制約している」(『脱学校の社会』1頁)点から、学校を廃止し、新たな教育空間の樹立を提唱している。

 学部卒業後、私は大学院に行き、さらに教育学の研鑽を深めていきたいと思っている。それにあたり、近代教育学(特に学校制度)への根本的批判を行ったイリッチの思想についてを自分なりにまとめておく必要性を感じるようになった。それには次のエピソードが元になっている。

 中学から高校にかけて、私は学校制度のもつ「気持ちの悪さ[3]」を何となくではあるが、感じるようになった。無理やりクラスに割り当てられ、決められた学習を唯々諾々とこなしていく学校。途中までは学校に自分を合わせるように努力をしていたが、クラスメートによる集団的な排除の経験をして以来、学校というものがつくづく嫌になった。

 大学に入り、『脱学校の社会』という書と出会う。また、学校以外の学び舎であるフリースクールというものとも出会った。これらは学校の持つ「気持ちの悪さ」を理論面で説明している発想であった。

 『脱学校の社会』などのイリッチの著作を見る中で、自分自身の考え方も変化していった。本稿で『脱学校の社会』を取り上げたのも、自分の大学生生活と非常につながりが深い内容だからである。

2、本稿の構成ならびに目次

 本稿は以下のように構成されている。

1、はじめに

2、本稿の構成ならびに目次

3、本稿の狙い

4、序論

(1)イリッチ用語を理解することの必要性

(2)ラーニングウェッブの現代での可能性、あるいはラーニングウェッブ的教育実践

(3)「代案」に関心がなかったイリッチ

*フリースクールの定義について

5、本論

【第一部】「学校化」「価値の制度化」「脱学校」とは何か?

1、「価値の制度化」についての自分の考え

価値Aと価値B

学校と学びの違い

本章の結論

2、「価値の制度化」からイリッチが言おうとしたことは何か

至るところで「価値の制度化」がおきている

価値の制度化の起きている場所

制度に頼らずに生きる

結論
3、学校化とは何か

宮台真司の「学校化」概念

イリッチの「学校化」概念

『脱学校の社会』とは、全ての学校の廃止を訴えた本ではない

イリッチの「学校」定義を超えた教育活動

ライマーの「学校」の定義

山本哲士の主張

「学校化」された学びの弊害① 学ぶ意欲を他人に上げてもらうことを期待するようになる

「学校化」された学びの弊害② 学校で過ごすことを「学び」を行うことであると考えるようになる

結論

【第二部】ラーニングウェッブの現代における可能性

1、「ラーニング・ウェッブ」とは何か?

2、「学校+α」としてのラーニングウェッブ

3、「学校に代わるもの」としてのラーニングウェッブ

、「学校リベラリズム宣言」の内容

(1)「学校リベラリズム宣言」の狙い

(2)「学校リベラリズム宣言」の、「教育制度の根本的改革案」

(2)内藤プランの後、どんな変化があるか?

(3)内藤朝雄と藤田英典の論争

【第三部】フリースクール的「学び」のあり方

「渇き」による学びの重要性

子どもの学習の発動は自主的判断によって行われるのか? それとも強制か?

ヒロベンの可能性

フリースクールの「ヒロベン」は「普通教育」か否か?

フリースクールの「フリースクール」性をいかに担保するか?

6、補論

(1)フリースクールの全国組織の比較

(2)丹波ナチュラルスクールについて。あるいは、フリネットとマスコミとの「フリースクール」認識の乖離について

7、終論

8、参考文献

3、本稿の狙い

 本稿は、イリッチの『脱学校の社会』をもとに考察した事柄をまとめたものである。『脱学校の社会』の鍵概念である、価値の制度化・学校化・脱学校・ラーニングウェッブという単語の定義について考察を行う。そこから、イリッチの教育思想を考えていく。

 ラーニングウェッブについては、現在の社会での実現可能性も考察していく。

 最後に、フリースクール的な学びのあり方について見ていく。

 


4、序論

 

(1)イリッチ用語を理解することの必要性

 思想家イリッチは、彼独自の言葉を多くつくっている。『脱学校の社会』のみに限っても、「学校化」「価値の制度化」「相互親和社会」など、多くの言葉がある。『脱学校の社会』は彼の初期の著作だが、それ以後にも「シャドウ・ワーク」(『シャドウ・ワーク』)などの独特な言葉を提唱している。

 実際の所、彼の用語は誤解を受けて使用されていることが多い。本論でも指摘するが、『脱学校の社会』を〈学校の制度改革〉論として読む論者も入れば(『脱学校化社会の教育学』)、大学などのあらゆる学校の廃止を謳った本であると誤読している論者もいる。

 本稿には、イリッチの『脱学校の社会』にもたらされている誤解を晴らすという目的もある。

(2)ラーニングウェッブの現代での可能性、あるいはラーニングウェッブ的教育実践

 もう一つの狙いとして、現代における『脱学校の社会』再評価を行うというものがある。イリッチが「ラーニングウェッブ」概念を発表した当初、「夢物語だ」という批判が多く出た。

『脱学校の社会』が発表されて以来、最も批判を浴びたのは、代案についてであった。このような批判は、本書の中でもたくさん展開されている。脱学校論者の具体的代案の欠け、あるいはその貧弱さに対する批判は、新ロマン主義者、学校改革論者から集中的に出されている。(桜井恵子「解説」、イヴァン・イリッチ他、松崎巖訳『脱学校化の可能性』東京創元社、1959年、208頁)

 この引用文内の「代案」とは学校を廃止したあとの教育システムについてのことである。そのため、ラーニングウェッブ以外のイリッチの「代案」も含まれている。

『脱学校の社会』発表の1970年には、情報インフラの整備がほとんどなされていなかった。しかし現在の日本はIT革命・ユビキタス社会との言葉に象徴されるように、高度情報化社会となっている。イリッチの「ラーニングウェッブ」が実現可能と言えるような状況となっているように筆者には思える。そのため現代におけるラーニングウェッブ論の意義を考察したいと考えている。

(3)「代案」に関心がなかったイリッチ

 イリッチ自身は脱学校を行った後の教育システムである「代案」にはあまり関心がなかったようだ。

イリッチは、この論文(『脱学校化の可能性』収蔵の「学校をなくせばどうなるか?」というイリッチの論文)の中で具体的代案を展開せず、代案の原則だけを語り、政治的目標を列挙している。このことをみれば、彼の関心が代案の具体的実施や実践にはほとんどなかったことがわかる。(桜井恵子「解説」、イヴァン・イリッチ他、松崎巖訳『脱学校化の可能性』東京創元社、1959年、209頁)

*(  )内は藤本。

 イリッチは途中からほとんど教育についての言及を行わなくなり、代わりに「脱病院化」「シャドウ・ワーク」などの近代社会批判の論文を書くようになっていく。『脱学校の社会』から再び引用する。

 つまり個々人にとって人生の各瞬間を、学習し、知識・技能・経験をわかち合い、世話し合う瞬間に変える可能性を高めるような教育の「ネットワーク」をこそ求めるべきなのである。本書は、教育に関してそのようにものの考え方を逆転させてみるような研究をしている人々および教育以外においても、確立されたサービス産業の諸制度にとって代わるもの(オルターナティヴズ)を捜し求めている人々が必要とする概念を提供したいと思う。(『脱学校の社会』2頁)

 この部分のポイントは「概念」という言葉である。〈イリッチは夢物語しか語らない〉という批判をする人は多いが、「概念」についてを提供するために本書が書かれたのだからこの批判は当たらないのである。

 本稿においては、『脱学校の社会』と『脱学校化の可能性』でのイリッチの教育観を見てみるものとする(論考の参考として、『シャドウ・ワーク』などの後期の著作も使用するものとする)。その理由は、『脱学校の社会』中の「学校化」「価値の制度化」「脱学校」「ラーニングウェッブ」などの概念の整理と、「ラーニングウェッブ」の現時点での実現可能性と教育政策改革案としての思考を行うことが本稿の目的であるからだ。


*フリースクールの定義について。

 本稿において、「フリースクール」はフリースクール全国ネットワーク加盟[4](通称 フリネット)のフリースクールを指すものとする。そのなかでも、筆者が何度か見学に行き、そしてボランティアとして関わっている「東京シューレ」の王子校と新宿校をフリースクールのモデルとして考える。

フリネット加盟のものを「フリースクール」と本稿で指す理由として、フリースクールの形態が多様であることがあげられる。自団体の建物ではなく公民館の一室などを借りて行っているフリースクールもあれば、塾や予備校などが運営するものもある。フリースクールと類似のものとして「フリースペース」や「居場所」と呼ばれるものも存在する。世界的には、日本でいう「フリースクール」を、デモクラティックスクール[5]と呼ぶことがある。

 なお、単に「フリースクール」と呼ぶ場合、シュタイナー教育を行う「東京賢治の学校」のようなオルタナティブ教育とは別のものを指す。それは、『フリースクールとはなにか』の次の記述に基づいている。

伝統的な学校教育ではなく別のものを求める、というとき、シュタイナー、モンテッソーリ、フレネその他、はっきりした教育思潮と方法論をもって世界的に広がっている教育もある。それらは、オルタナティブ教育と呼ばれても、フリースクールとは呼ばれない。フリースクールは、オルタナティブスクールのなかの一つであって、学校教育以外であればフリースクールというわけでもない。

 フリースクールが、他のオルタナティブ教育ともっとも違う点は、子どもを主体とすることであり、教育内容を自由につくりだす、ということであろう。○○を○○のために教える、活動させる、というのではなく、子どもの興味、関心、意欲に依拠して作っていくことになる。それは、子ども中心であるがゆえに、教師と生徒の関係を含め、あらゆる側面が変わることになる。(NPO法人東京シューレ編『フリースクールとはなにか』教育資料出版会、2000年、17頁)

 この記述において注意すべきは、シュタイナーやフレネの教育をフリースクールではないと語っていながら、ニイルのサマーヒルスクールは「フリースクールだ」と呼んでいる点である。世界最古のフリースクールとしてあげられるのは、ここにあげたサマーヒルスクールだ。1924年に完成している。シュタイナーやフレネなど「はっきりした教育思潮と方法論をもって世界的に広がっている教育」のうち、ニイル発祥のものが「フリースクール」と呼ばれている、と解釈すべきであろう。

 もっとも、フリースクール全国ネットワーク加盟のフリースクールの中に「フレネ自由教育フリースクール ジャパンフレネ」という団体がある。パンフレットには次のように書かれている。

フレネ教育とはフランスに生まれ、ヨーロッパを中心に世界的に広がりつつある自由教育の方法です。(中略)

子どもを主体とするフランスの‘フレネ自由教育’をもとにして、ひとりひとりの疑問や悩み、そして成長を助けていきます。(フレネ自由教育フリースクール ジャパンフレネのパンフレット)

 先の『フリースクールとはなにか』の内容を確認してみると、次のことがいえるであろう。「シュタイナー、モンテッソーリ、フレネその他、はっきりした教育思潮と方法論をもって世界的に広がっている教育」ではあっても、「子どもを主体とすることであり、教育内容を自由につくりだす」実践である時はフリースクールを意味するのである。


5、本論

 本論において、イリッチの『脱学校の社会』をもとに論を進めていく。

 本論は次の3つに分かれている。

第一部:「学校化」「価値の制度化」「脱学校」とは何か?

第二部:ラーニングウェッブの現代における可能性

第三部:フリースクール的「学び」のあり方

 まず、第一部から考察していく。

【第一部】「学校化」「価値の制度化」「脱学校」とは何か?


1、「価値の制度化」についての自分の考え。

価値Aと価値B


 イリッチの文章をまず見てみる。


多くの生徒たち、とくに貧困な生徒たちは、学校が彼らに対してどういう働きをするかを直感的に見ぬいている。彼らを学校に入れるのは、彼らに目的を実現する過程と目的とを混同させるためである。(中略)「学校化」(schooled)されると、生徒は教授されることと学習することとを混同するようになり、同じように、進級することはそれだけ教育を受けたこと、免状をもらえばそれだけ能力があること、よどみなく話せれば何か新しいことを言う能力があることだと取り違えるようになる。彼の想像力も「学校化」されて、価値の代わりに制度によるサービスを受け入れるようになる。(『脱学校の社会』13頁)


 ここで語っているのは、「価値の制度化」の話である。「制度化」について脚注では、「共通の価値観が内面化される一方、価値を実現するための制度づくりがなされ、その制度に対する人々の期待が高められていくことかと思われる」(54頁)とある。
 これは何を意味するのであろうか。
 本来目指すべき価値を仮にAとする。本来はAをまっすぐに目指していくべきだが、手短な目標である価値Bを目標とする。このBは「価値A実現のための学校の卒業」とでもしておこうか。学校に通い続け卒業すれば(つまり価値Bを目標としていけば)、自然に価値Aに達することができるというタテマエである。ここにある少年に登場してもらおう。価値A実現のために学校Bに通っているのがこの少年である。通っていればいつか卒業できる時が来る。少年はBを出ることのみが重要だとずっと考えていた。卒業して、「学校を卒業したことを認める(価値Bの実現)」という証書をもらった。少年は「このために勉強してきて良かった」と喜んでいる。帰り道、少年はふと気づく。「あれ、価値Aを僕は修得できたのだろうか?」と。
 これが価値の制度化といえるのではないだろうか。本来、学校は教育をすること/子どもが学ぶことが主たる価値である(価値A)。けれど子どもは放っておいて勝手に学ぶかというと、必ずしもそうではない。学びという価値Aを誘発する装置として、学校(価値B)を作った。学校というのは価値Aを実現するための装置、つまり制度にすぎない(価値Bということだ)。

現代は学校という制度に通うことのみが重視されて、そこで教育が行われるということが忘れ去られている。本来なら学校に行くこと(価値B)が重要なのではなく、子どもが学ぶこと(価値A)が重要なのだ。けれど知らぬ間に価値Bの方が重要と考えられ、価値Aがなおざりにされてしまう。〈子どもが学ぶこと〉という価値A実現のためなら、別に学校(価値B)を用いなくとも、たとえばフリースクールに行くという選択肢も存在するべきだ。しかしながら、実際には制度/装置にすぎない「学校」へいくことのみが現在重視されている。この価値の転倒をイリッチは「価値の制度化」と呼んだのであろうと考える。

学校がある限り、「学び」がなくなってしまう。この逆説の解決をイリッチは望んだのである。

学校と学びの違い

 山本哲士は次のように言っている。

学校志向からの脱出は、学校を非学校化するだけではなく、社会をも非学校化することだという内容をつかみとらねばなりません。しかし、この問題は、学校を攻撃する啓蒙的な作業でもなければ、また政治プログラムをいかに編みあげるかという問題でもないのです。要は、宗教制度から学校が世俗化されたことによって(藤本注 近代教育制度成立のための「宗教的中立」が実現した、ということ)、学校の聖化が、〈教育〉を宗教として再構成されていると認知し、学校から「学ぶ」行為を世俗化させるべきだ、とイリイチはいいます。教育を蘇生させるのでも復権させるのでもない。学ぶ様式の多次元的な世界を蘇生させることである、というのです。(山本哲士『学校の幻想 教育の幻想』182頁)

 学校と学びは違う。だからこそ、学校にのみ「学び」が押し込められ、しかも本来的な「学び」がなくなっている(「学び」が「学校化」される)状況を変革していく必要性がある。それが山本の言う「学校から『学ぶ』行為を世俗化させるべき」との発言である。要は学校だけに「学び」を閉ざさない、あるいは「学び」という個人的行為に他人が口出ししない、ということであろう。

 イリッチはこのような他人が口出しをするという「教育」に、強い批判を行っている。

イリイチは、「教育」は近代の新造語であると、全面否定します。さらに、現代産業社会で「教育」とは、‘触知できない商品’であると規定します。彼は、トータルな視座から教育をネガティブなものとみなしているのです。

「教える」ということは、他者が働きかける様式、つまり概念的には他律的様式としておさえられます。それに対して「学ぶ」ということは、自律的な様式です。現代の教育という商品、あるいは基本的必要を中心に構成されている〈学校〉あるいは〈学校化社会〉というのは、その自律的な「学ぶ」ということに「教える」という対立的なものが働きかけた結果なのだ、といえます。ですから「教えないと学べない」とか「教えてやらなければいけない」とかという論理が生じるのです。「教える」という他律的なものが勝利したとき、教育という商品がそこに完成します。他律的なものが働きかけていくと、働きかけた結果、現実的にある価値が作られてしまうのです。ある種の〈資格〉を象徴とする競争原理に基づく序列化社会はまさしく〈教育の商品化〉の結果です。(中略)イリイチは、文明史的な視座から「教育=商品」を時代の本質的な構造として相対化してとらえます。(山本哲士『学校の幻想 教育の幻想』192193頁)

 本来的な学びの復権のためには、「学校」を廃止しなければならない。これが「脱学校」(あるいは山本の「非学校」)を行う意義である。

本章の結論 

 学校と「学び」はイコールでない。同様に、「教育」と「学び」もイコールではない。このような勘違いは、価値の制度化のために起きている。




2、「価値の制度化」からイリッチが言おうとしたことは何か。

至るところで「価値の制度化」がおきている


 再び、『脱学校の社会』の文章を見てみる。


私は以下の拙論において、人々が価値の制度化をおし進めていけば必ず、物質的な環境汚染、社会の分極化、および人々の心理的不能化をもたらすことを示そうと思う。この三つの現象は、地球の破壊と現代的な意味での不幸をもたらす過程の三本柱なのである。(同、14頁)

この文章は「価値の制度化」についてのイリッチの考察である。このなかでイリッチは「物質的な環境汚染、社会の分極化、および人々の心理的不能化」という例を挙げて現代文明に警鐘を鳴らしている。つまり、イリッチは現代の「価値の制度化」という問題を訴えたいのであって、学校の話は一つの例にすぎない。価値の制度化は、あらゆる分野に起ころうとしているのだ。

 再び本文に戻る。


必要な研究は、人々の人間的、創造的かつ自律的な相互作用を助ける制度で、かつ価値が生み出されるのに役立ち、しかも肝心なところを専門技術者にコントロールされてしまわないような価値を生じさせる制度を創りあげることに、科学技術を利用するにはどうしたらよいかという研究なのである。(14頁)

私は、われわれの世界観や言語を特徴づけている人間の本質と近代的制度の本質とを、相互に関連づけてはっきりさせるためにはどうしたらよいかという一般的な課題を提起したい。そのための理論モデル(パラダイム)をつくる素材として私は学校を選んだ。(15頁)

つまり、イリッチ自身は「価値の制度化」が起きている近代文明への批判を行うために本書を書いたのであって、〈社会の脱学校化を断じてなしとげなければならない〉という主張をするために本書を書いたわけではないのである。「脱学校」は、あくまで2次的な目標である。イリッチ自身が「書きやすい」と感じた好例だったため、学校をテーマにしているのだろう。先の比喩を使えば、価値Aが「価値の制度化」論、価値Bが「脱学校論」であるといえる。

価値の制度化の起きている場所


 「価値の制度化」が起きているとして、イリッチは「家庭生活、政治、国家の安全、信仰およびコミュニケーション」を挙げている。


私は学校の潜在的カリキュラムの分析を通して、社会の脱学校化は公教育にとって
プラスになるということ、そしてそれと同様に、家庭生活、政治、国家の安全、信仰およびコミュニケーションも、同じような過程を経ることから利益を得るであろうことを明らかにしようと思う。(15頁)


 この文が示している通り、価値の制度化を排す手法は「脱学校化」と同じプロセスなのである。

制度に頼らずに生きる

 なお、価値の制度化について、『シャドウ・ワーク』の中にも類似の概念が登場する。

『シャドウ・ワーク』でイリッチは言う。「もし自分の手で丸太小屋を建てることができるほどのひとならば、そのひとは本当は貧しいとはいえないのだ」(『シャドウ・ワーク』43頁)。丸太小屋という粗末な家をあえて自分でつくることができるのは、金持ちの特権なのである。近代成熟期(ポストモダン)には制度に頼らず「自分で」することは特権階級のすることとなってしまった。制度に頼らない学び、たとえばフリースクールやホーム・エジュケーションに関心を持つのは金持ち層が多い。イリッチの主張はこのような点にも現れている。

「学び」という営みも本来、もっと自由なものであったはずだ。「学校」という制度に頼らなくても、子どもたちが周りの「まね」をのびのび行っているのが本来の「学び」であったはずだ。いま、「まね」ることの出来る環境が無くなりつつあるのと平行して、「学び」が「学校」のみに一元化されようとしている。また宮台真司の言うように学校的価値が社会にひろまるという意味での「学校化」も起きている。「学び」と「制度」がつながってしまったのだ。「価値の制度化」である。

結論

 本章のまとめを行う。イリッチは価値の制度化を批判するために『脱学校の社会』を書いた。脱学校化はあくまで価値の制度化を説明するための題材にすぎないのである。


3、学校化とは何か。

宮台真司の「学校化」概念

 

 『教育学がわかる事典』によれば、「学校化」という言葉には2つの文脈があるとされる。一つの流れはイリッチが言いはじめた概念、もう一つは日本において社会学者・宮台真司が言いはじめた概念である。

 はじめに宮台の「学校化」概念をみていく。

 上野千鶴子は『サヨナラ、学校化社会』の中で次のように「学校化社会」を説明している。


もともとは、イヴァン・イリイチが『脱学校の社会』(1970)で指摘した現代社会の特徴。学校がその本来の役割を超えて、過剰な影響力を持つにいたった社会のこと。しかし現代日本では、学校的価値が社会の全領域に浸透した社会という、宮台真司が広めた定義のほうが有名である。(50 頁)

 宮台真司の学校化の定義について、『これが答えだ!』では次のように説明されている。

「家や地域までもが学校的価値で一元化されることを私は「学校化」と呼びます」(『これが答えだ!新世紀を生きるための108108答』朝日文庫、2002年、281頁)。

 『学校的に日常を生き抜け』では、次のようにも示されている。

宮台 学校化とは、空間的に言えば、家も地域社会も学校的なものの出店になるということです。時間的に言えば、学校的なものが、教室にいる時間だけでなく、全生活時間を覆うようになることです。大人社会の側から言えば、学校的な機能をバックアップすることが、家や地域社会の機能だというふうに自己認識するようになると言い換えることも出来ます。(宮台真司・藤井誠二『学校的日常を生き抜け』教育資料出版、1998年、16頁)

宮台のいう「学校化」の現代的事例は、上野千鶴子の『サヨナラ、学校化社会』に詳しい。その中には大学受験での偏差値をもとに自分を判断し、「どうせ三流大学だから」と卑下する学生や、逆に自分自身を必要以上に高く評価する学生の話が出てくる。事例を紹介した後、上野は「学校化社会とは、だれも幸せにしないシステムだということになります」(57頁)とまとめている。

 イリッチの「学校化」定義と宮台・上野の定義とは若干ニュアンスが異なっている。後述するとおりイリッチは社会が「学校化」されることを主張したが、宮台は学校的価値が社会に吹き出す/浸透する社会のことを主張したのである。

イリッチの「学校化」概念

社会学者である山本哲士は、イリッチの主催するCIDOCに留学をした経験を持つ。森重雄によれば、山本は当初「学校教育」と訳されたイリッチのschoolingという言葉を、「学校化」と訳すべきだと主張した人物である(森重雄「学校化」、教育思想研究会編『教育思想事典』勁草書房、200087頁)。山本はイリッチの「学校化」について次のように説明している。

学習や教育が学校に独占され、学校を通じて学習・教育が生産され価値あるものとなる「産業的生産様式」の典型。「学校」という形態とは区別されるべき、生産様式が「学校化」であり、学校の視えない働きとなっている。教育が制度化されて学校化が構成される。学校化に対抗するものが「非学校化deschooling」で、聖なる学校から教育を世俗化することを意味する。(『学校の幻想 教育の幻想』ちくま学芸文庫、17頁)

次は、『新教育事典』(勉誠出版、2002)の「学校化する社会」(楠本恭之)からみていこう。

イリイチが問題とする「学校化」とは、こうした「学校」への、子どもをはじめとして、社会までもの、いわゆる「囲い込み」を意味する。彼は、『脱学校の社会』のなかで、「学校は教育に利用できる資金、人および善意を専有するだけでなく、学校以外の他の社会制度に対しては教育の仕事に手を出すことを思いとどまらせてしまう。労働、余暇活動、政治活動、都市生活、そして家庭生活までもが教育の手段となることをやめ、それらに必要な習慣や知識を教えることを学校に任せてしまう」ことを問題とするのである。(187頁)

『脱学校の社会』とは、全ての学校の廃止を訴えた本ではない


 『脱学校の社会』はすべての学校を廃止することであると、誤解されることが多い。しかし、実際にはイリッチは学校の非公立化を主張したのである。

わたしが脱学校deschoolingということばで意味したのは、学校の非公立化desestablishmentでした。学校を廃止すべきだと考えたことはありません。(イバン・イリイチ著、D・ケイリー編、高島和哉訳『生きる意味「システム」「責任」「生命」への批判』藤原書店、2005年、96)


 脱学校[6]とは、単に学校を廃止することを意図したものではないのである。そもそもイリッチは「学校」の定義として、「特定の年齢層を対象として、履修を義務づけられたカリキュラムへのフルタイムの出席を要求する、教師に関連のある過程」(『脱学校の社会』59頁)と書いている。この定義に当てはまる「学校」の批判をイリッチは訴えたのである。『脱学校の社会』でも、大学や技術修得の学校は存続させることが必要であると書かれている。

 その理由として、第三世界との兼ね合いが述べられている。教育には非常に費用がかかる。もっと安く押さえることができるのではないか、という問題意識にも基づいている。

イリッチの「学校」定義を超えた教育活動

イリッチの「学校」の定義をこえる教育活動として、一番簡単にイメージできるのは大学であろう。筆者のいる早稲田大学でも、定年後に入学してきた60歳の学生がちらほらいる(イリッチの学校の定義「特定の年齢層」に当てはまらない)。大学は出席しなくても単位が取れる(イリッチの定義「履修を義務づけられたカリキュラムへのフルタイムの出席を要求」に当てはまらない)。イリッチの「学校」に当てはまらないからこそ、彼が〈脱学校化をおこなっても、大学や技術学校は残すべきだ〉と主張しても矛盾は生じないのである。

都立新宿山吹高校という学校がある。この学校は無学年・単位制の高校である。宮台真司らが『学校が自由になる日』内で絶賛している学校だ。異年齢集団が、通学でも通信でも学ぶことのできるのが新宿山吹高校である。これもイリッチの「学校」定義から外れた学校である。

ライマーの「学校」の定義

 先ほど書いたイリッチの「学校」の定義は、イリッチの共同研究者のエヴァレット・ライマーとほぼ同一の内容である。ライマーの著書『学校は死んでいる』を見てみる。

我々は、段階づけられたカリキュラムの学習のために、教師が監督する教室に特定の年齢群の者が常時出席することを要求する機関として、学校を定義する。ある機関にこの定義が正確に当てはまれば当てはまるほど、その機関は学校のステレオタイプに近いということになる。教育における代案は、このステレオタイプから離れるものとして、最も一般的に定義することができる。その離れ方が学校制度の「引力」から逃れられるほど遠く、かつ速くないと、ふたたび学校制度に吸収されてしまう。(エヴェレット・ライマー著、松居弘道訳『学校は死んでいる』晶文社、1985年、60

ここにある「引力」の比喩は印象的だ。イリイチと同じく、フルタイムでの出席を要求し、年齢ごとに授業し、教師が授業をし、その内容はカリキュラムで決められている、という要素をもつものを「学校」と呼んでいる。

山本哲士の主張

 山本哲士はイリッチのdeschoolingを「脱学校」ではなく「非学校」と訳すことを提唱している。山本は次のように語る。

「ディスクーリング」を「非学校化」と訳した政治社会学者、栗林彬氏のみがイリイチを正しく理解していた、日本で唯一人の研究者でした。イリイチの「ディスクーリング」は、学校化された教育にたいして、まったく異なる別の途への転換を意図した「政治転換」であると強調するあまりに、「学校無化」と訳したわたしは、こりすぎでした。(山本哲士『学校の幻想 教育の幻想』253頁)

 山本は、イリッチの「ディスクーリング」という言葉について次のようにまとめている。

この「ディスクーリング」は内容的には〈脱学校〉と〈非学校化〉に分化したというのが、わたしなりの見解です。

 〈脱学校〉のタームとは、学校改革論であり、教育や学習を学校形態の新しいあり方(学校がなくなるのをも含めて)の中でもって、しかも教育のみの水準で語っているのです。それは、様々の多様な〈教育〉実践の可能性を同時に探っています。

 〈非学校化〉とは、社会、政治の転換を語っているもので、そのとき学校は、政治や経済を媒介変数にして変わるのではなく、学校化それ自体の転換が社会全体の根源的な転換となる。つまり学校化という構成は社会そのもののあり方、産業的生産様式そのものであると示しているからです。〈教育〉の再生でなく、むしろ、自律的な〈学習〉の甦生を示そうとしています。(山本哲士『学校の幻想 教育の幻想』254頁)

 イリッチは「脱学校論者」だとよくいわれるが、山本に言わせれば「非学校論者」なのだ。教育ではなく学習の再生を目指しているのである。

「学校化」された学びの弊害① 学ぶ意欲を他人に上げてもらうことを期待するようになる

 イリッチは『脱学校の社会』(山本哲士によれば『学校のない社会』)のなかで、子ども自身/人間個人の「学び」が、「学校」によって失われるということを 批判していた。学校により、人々は「学んだことは教えられたことの結果だ」という大いなる勘違いを行ってしまう。あるいは自分で学ぶことを危険なことであると考えてしまう。大学受験の際も、予備校にいくことが「普通」になり、自主学習で受験勉強することが珍しいものになってしまった。本来個人的営みであったはずの「学び」が「学校化」されてしまうのだ。そのことにより、学ぶ気力を他人に上げてもらうことを期待するようになる。
 宋文洲『社員のモチベーションは上げるな!』という本がある。その中に、次の話が出てくる。

 やる気のない人を放っておこう。
 やる気のない部下を許そう。
 これが本書の本質です。
 喉が渇いたら、馬は自ら水を探します。そのときは、馬が真剣に、水の匂いを嗅ぎ分け、道を探すのです。
 水がいらない馬を、川に引っ張っていくことは、ムダなことであり、自己満足にすぎません。
 渇きこそ、モチベーションの源泉です。
 他人に与えられるのではなく、自分で感じ取るものです。
 生きていれば、必ず渇くときがあります。
 他人にモチベーションを上げてもらおうと考えた瞬間に、モチベーションの炎が、あなたの心から消え去ります。(
宋文洲『社員のモチベーションは上げるな!』幻冬社、2009

67頁)

学校の教育は、いわば水を欲しない馬(子ども)にむりやり水を飲ませよう(学ばせようとすること)とするものである。需要がない所に、無理やり供給をもたらそうとしている。ムダである。
 引用文ではモチベーションを謳っているが、学校においては「学ぶモチベーション」と考えることができるだろう。学校は、無理して子どもに「学ぼうよ」・「勉強しようよ」と呼びかける。あるいは恫喝的に「勉強しろ!」・「宿題忘れるな!」を叫ぶ。
 学校の方が騒ぐだけで済めばいいのだが、子どもたちは次第に「学校化」される。自分の「学ぶ意欲/モチベーション」を他者に上げてもらおうと考えるようになる。小中高と、他人から「学べ!」と強制されつづけ、結果的に自分から学ぼうとしなくなる。「誰かに言われるから」という自主性のない学びのみとなる。
 現在の大学もそうなっている。高校の延長でやって来ているため「自分の研究をしなさい」と言われても「何をすればいいんですか?」「やる気が起きません」と返答する。完全に「学校化」された姿だ。これでは自主性をもった「学び」が起きない。
 筆者は、学問は「禁止されても、ついついやってしまう」麻薬のようなものだと考えている。もし「本を読むな!」と仮に言われても、こっそり陰で読んでしまうだろう。学問に志すことは、ある意味麻薬を始めることに似ている。学ばずにはいられなくなる。たとえそれが国法として禁止されていようとも。
 本来の学びは、これくらい中毒性の強いものなのだ。真に自発的に「学ぶ」意欲が湧いたとき、人間は果てしなく学んでいくものなのだろう。それを無理やり学ばせようとするために、「学校化」された個人が誕生してしまう。「学校化」されると、「学べ!」と強制されない限り自分から学ばないようになるのだ。

 自らの意志すらも学校に預け、「学ぶ」意欲を他人に上げてもらうことを期待すること。これも「学校化」の側面であると考える。

「学校化」された学びの弊害② 学校で過ごすことを「学び」を行うことであると考えるようになる

 もうひとつの側面として、学校で過ごすことと「学び」を行うことをイコールであるかのように考えるようになる、ということがあげられる。

現行制度のもとでは、学校で集団生活することが「勉強する」ことであるといった現実感覚が蔓延する。多くの生徒たちは、終日ぼんやりと教室に座っているだけで国語や数学をろくに習得していなくても、「学校で授業を受ける」という集団行動(集団学習)をすることでもって、自分は「勉強をした」と思っている。一日中学校で「授業」を受け、さらに塾に通い、それでも(その結果!)勉強ができないといったありさまは、生徒にされた人たちの間では普通のことである。(内藤朝雄『いじめの構造』講談社現代新書、2009年、228229頁)

 内藤の描いたこの姿は、「学校化」した学びそのものである。「学習のほとんどが教えられたことの結果だ」というイリッチの「学校化」概念を、わかりやすく示した姿であると考えられる。

結論

イリッチは価値の制度化により〈学習のほとんどが教えられたことの結果だ〉と考える姿勢をこそ批判したのである。そして、この〈学習のほとんどが教えられたことの結果だ〉という考え方こそが「学校化」という概念なのである。《本来、自律的・自発的・能動的におこなわれるはずの学びが、学校によって他律的・強制的・受動的にさせられる行為に転化していく》のである。

 イリッチの文章を見てみる。


学校教育の基礎にあるもう一つの重要な幻想は、学習のほとんどが教えられたことの結果だとすることである。たしかに、教えること(teaching)はある環境のもとで、ある種類の学習には役立つかもしれない。しかしたいていの人々は、知識の大部分を学校の外で身につけるのである。人々が学校の中で知識を得るというのは、少数の裕福な国々において、人々の一生のうち学校の中に閉じ込められている期間がますます長くなったという限りでそう言えるにすぎない。
 ほとんどの学習は偶然に起こるのであり、意図的学習でさえ、その多くは計画的に教授されたことの結果ではない。普通の子供は彼らの国語を偶然に学ぶのである両親が彼らに注意していればより早くはなるであろうが。(3233頁)


 先に「価値の制度化」について見てきた。「脱学校」とは〈学習のほとんどが教えられたことの結果だ〉とみる「価値の制度化」の状況を乗り越え、本来的な学びの復権を図ろうとすることをさすのである。現在の学びは学校に支配されている。結果、〈学習のほとんどが教えられたことの結果だ〉と人々が「学校化」されてしまう。そのことにより、学ぶ気力を他人に上げてもらうことを期待するようになり、学校で過ごすことを「学び」を行うことであると勘違いするようになる。

 この現状から抜け出ることを、イリッチは「脱学校」と呼んだのである。


【第二部】ラーニングウェッブの現代における可能性

1、「ラーニング・ウェッブ」とは何か?

イリッチの描くラーニング・ウェッブ像。

 『脱学校の社会』6章は、「学習のためのネットワーク[7]」という章である。原著ではlearning websと書かれている。これは、「学校」の廃止後の(つまり「脱学校」したあとの)社会のありかたについてイリッチが説明をしている章である。この章をもとに、イリッチの〈ラーニング・ウェッブ〉という概念を整理していく。 


 イリッチのラーニング・ウェッブとは、下のような仕組みで行う。

(1)教えたいことがある人が、コンピュータなどに「これを教えたい」と登録する。同様に、学びたいことのある人が「これを学びたい」と登録する。
(2)登録している人どおしを引き合わせる。
(3)教えた分だけ、「教育クーポン」をもらうことができる。また学ぶにあたっては一定量支給されている教育クーポンを使用する。
(4)学校教育にあたる段階においては、この教育クーポンを消費していくことで、教育課程の達成を目指す。(『脱学校の社会』)

 本文中において、イリッチは次のように指摘している。

仲間を選び出すネットワークの運営は、簡単であろう。このネットワークの使用者は、氏名と住所および自分が仲間を見つけたいと思っている活動について記述することである。コンピュータは、彼と同じ記述を打ち込んだあらゆる人々の氏名と住所を彼に知らせるであろう。そのように簡単に役立つものが公的に価値があるとされていた活動(公立学校制度のこと)のために大規模に用いられていなかったことは、驚くべきことである。(『脱学校の社会』170項)

*(  )内は藤本。


 イリッチは、要するに学びたい人と教えたい人とを引き合わせ、その小集団で教育を行うことを提唱している。これがラーニング・ウェッブの発想の根底である。

 このラーニングウェッブにおいて『脱学校化の可能性』では批判が出ている。これについては、「序論」末尾を参照してほしい。

ラーニングウェッブ、2つの方向性

 現代におけるイリッチのラーニングウェッブの実現可能性を考える上で、方向性は2つ考えられる。

 一つは梅田望夫の主張するような、「学校+α」として考える方法である。既存の学校体系を持続した上で、ブログ等を用い自主的・追加的学習としてラーニングウェッブを想定するものである。

 もう一つはイリッチや内藤朝雄のいうような、「学校に代わるもの」として考える方法である。この場合「教育クーポン」(あるいは「教育チケット」や「教育バウチャー」とも言う)を使用することになるが、現在の教育界では「学校内」のみで「教育クーポン」制度を考えることが多い。

2、「学校+α」としてのラーニングウェッブ
 

ブログ空間はラーニングウェッブたりうるか?

 本項目では、現代においてラーニングウェッブによる学びの実現可能生を見ていく。なお、あくまでも現在の教育制度を維持した上での考察である。イリッチの考えたラーニングウェッブという概念を、現在の教育においていかす道を考察した内容となっている。


 『私塾のすすめ』梅田望夫・齋藤孝)という本がある。この本のテーマは《ブログ[8]は、適塾・松下村塾のような私塾になる可能性がある》ということである。

本書の内容はイリッチの著書『脱学校の社会』にかかわりが深い。というよりも、イリッチの「ラーニング・ウェッブ」という概念を現代風にアレンジしたとも言える内容となっている。


 イリッチの「ラーニング・ウェッブ」は、ブログを活用することで実現可能なのではないか。この仮説を検討することが本項目の狙いである。 
 本項目での私の主張は、あくまで既存の教育制度を維持し、平行する形でのラーニング・ウェッブの成立の可能性を探るものであり、学校制度廃止までを考察したものでないことを付言しておく。

『私塾のすすめ』において、ラーニング・ウェッブと共通点の多い箇所

 梅田望夫[9]は『私塾のすすめ』において、次の指摘をしている。ここで語っている「志向性の共同体」は私塾を指し、〈ブログも私塾のようなものにできる可能性がある〉と示している。


梅田:志をもった良き大人、ある志向性を持った大人が、自分はこういう関心をもった人間なんだよ、ということをウェブ上に立ち上げて示していく。科学でも、数学でも、文学でも。そういう「志向性の共同体」がネット上にたくさんできたら、子どもでも、本当に自分の関心のあることをやっている大人たちの集まりに参加することができる。ネットでまずつながり、そしてリアル(藤本注 現実社会のこと)に発展していく。誰もがネット上で、志向性を同じくする若い人を集めて私塾を開くことができるイメージです。それはウェブ時代たる現代ならではのすばらしい可能性だと思うんです。(中略)多くの心ある人が、自分がもっとも大事だと思っている関心事項について、志向性の共同体たる私塾のようなものをネットの上でつくっていくと、さまざまな可能性がひらかれる。
 身近な世界の閉塞感のようなものがあって、時間の使い方もそこで縛られている場合に、良き私塾がもっともっとネットの上にできれば、そこで時間をすごすことができる。ところが、そういうビジョンをネットに関して提示している人が日本にはいない。「ネットというものは怪しげで危ないから子どもを遠ざけよう」という人が圧倒的に多い。今の日本のネットをみて、「怪しげで危ない」と思いたくなるということは僕も否定しないけれど、ネットの可能性を十年、二十年というレンジでみたときに、そうとだけ考えることはマイナスだと思います。
 現実社会でうまくいっている子は別として、そうでない子どもたちは、家に帰っても親との関係だけ、学校に行ってもせいぜい五十人という範囲のなかで、自分とぴったりあった世界をつくれない。今の日本の教育は、そこでうまくいかないとすべて駄目と言われてしまう感じですが、ネットにはそこをひっくり返せる可能性があると思っています。(4446項)


 この梅田の指摘は、ラーニング・ウェッブと親和性を持っている。梅田の言っていることは、イリッチが『脱学校の社会』で語っていることに共通点をもっているのだ。以下において、それを詳しくみていく。

 なお、ここで注意すべきは梅田の主張はあくまでも「私塾」の立場であるという点である。「学校」とは違う存在としての「私塾」であり、「学校」の代替物ではないという点である。

ラーニング・ウェッブとブログの共通点

 ここでは3点に分けて、イリッチの主張するラーニング・ウェッブと、梅田の言う〈ブログによる私塾〉との共通点をみていく。

(共通点1)自主的に学習が進む点

 イリッチが『脱学校の社会』において批判したことの一つに、〈学校制度がある限り、生徒が受動的になってしまうこと〉がある。イリッチは自主的な学びが成立する場としてラーニング・ウェッブを考察したのである。


本章で、私は学校についての考え方をひっくり返すことが可能であることを示すつもりである。つまり、次のことを示したいのである。第一には、学生に学ぶための時間や意志をもたせようとして彼らを懐柔したり強制したりする教師を雇う代わりに、学生たちの学習への自主性をあてにすることができることであり、(藤本注 この文の続きは次の引用である)(『脱学校の社会』136項)


 自らの興味がある分野であれば、自主的に学んでいくことができる。ブログにおいても強制されない分、子どもたちは自主的に興味のあるブログを探し出し、学んでいくはずである。
 
(共通点2)関心の共有が可能である点

 イリッチのラーニング・ウェッブ構想においては、教えたい者と学びたい者とが小集団で集まることで学習を行っている。この発想を実現させるためには〈何に興味があるか〉という関心事項の共有が行われる必要がある。イリッチは情報センターのようなものを設置することで、実現させようとした。ブログにおいては検索を行うことで可能である。

 さきほどのイリッチの言葉の続きを引用する。


第二は、あらゆる教育の内容を教師を通して学生の頭の中に注入する代わりに、学習者をとりまく世界との新しい結びつきを彼らに与えることができるということである。(136項)


 このイリッチの言葉にあるように、ブログを活用することで「新しい結びつき」を作ることができる。この「新しい結びつき」はブログの活用によっても可能である。

(共通点3)比較的、利用が容易である点

 学習するにあたって、教育設備が容易に利用可能であるか否かという点が大きな問題となる。いくらいい教育を行える場所であっても、費用がかさんだり、移動が大変であったりしては、教育を行えないからである。次のイリッチの言葉が示す通りだ。


必要なのは、公衆が容易に利用でき、学習をしたり、教えたりする平等な機会を広げるように考案された新しいネットワークである。(143項)


 イリッチのラーニング・ウェッブ構想では、国立の情報センターのようなものを利用することで学習者と被学習者を引き合わせる。ブログにおいてはインターネットを利用できる環境さえあれば学びを行うことができる。検索し、関心のあるブログにアクセスし、そこにある情報を学んでいくのだ。コメントの記入や直接的にブログ関係者と対面することもあるだろうが、基本はパソコンで出会う形をとる。
 イリッチの構想ではあちこちに情報センターを設ける必要があるが、ブログを活用する場合、設備の準備は特に必要でなく、インターネット利用環境さえあれば事足りる。よって、比較的利用が容易である点は解決されている。

ラーニング・ウェッブの悪用についての、イリッチの指摘

 コンピュータを使用し、人を引き合わせる。これには弊害がある。出会い系サイトのような問題が起きる可能性だ。イリッチはそのことにも気づき、以下のように語っている。


もちろんわれわれは、そのような公的な仲間選びの方法が、電話や郵便がそうであったように、搾取的あるいは不道徳な目的のために乱用される可能性のあることを認めなければならない。それらのネットワークの場合と同様に、何らかの防御策が必要である。私は、他の箇所で、尋ねてくる者の氏名と住所のほかには、適切な、印刷された情報だけが利用されるのを認める仲間選びの制度を提案した。そのような制度は、濫用に対して実質的に完全に守られている。他に別の調整をすれば、さらに本、映画、テレビの番組、あるいは特殊なカタログから引用されたほかの項目などを追加することもできよう。そのような制度のもつ危険性に関心をもつあまり、はるかに大きな利益を見失うようであってはならない。(173項)


 着目すべきは、「危険性に関心をもつあまり、遥かに大きな利益を見失うようであってはならない」との指摘である。先に引用した梅田の言にも、同様のものがある。「今の日本のネットをみて、『怪しげで危ない』と思いたくなるということは僕も否定しないけれど、ネットの可能性を十年、二十年というレンジでみたときに、そうとだけ考えることはマイナスだと思います」との部分だ。
 そのため、私は単にラーニング・ウェッブの危険性を指摘するだけでなく、その可能性に目を向けていくことが重要であると考える。

結論

 イリッチは理想主義者である、ともよく聞く。しかしイリッチに実現可能性がないとされたのは一昔前の話だ。いまはネット空間が存在する。ブログによって個人が情報発信をしていくことができる時代だ。


私がこれから提案しようとしている教育制度は、今日まだ存在していない社会のものである。(同、137項)


 イリッチが主張した教育社会は、当時の教育制度を超えたところにあった。しかし、ウェブ空間が発達した今、イリッチのラーニング・ウェッブ構想はやり方次第ですでに実現可能であるといえる。
 再度言うが、『私塾のすすめ』は端的に言えば《ブログが私塾となる可能性を秘めている》ことを示した本である。ここでいう私塾とは〈教えたい者のもとに、学びたい者がやってくる〉場所である。ラーニング・ウェッブとはまさしく私塾のような存在だ。ラーニング・ウェッブという形でイリッチが提唱した教育は、ある程度までブログの活用により実現可能である。ラーニング・ウェッブよりむしろ、イリッチの思想を反映できている、ともいえる。

3、「学校に代わるもの」としてのラーニングウェッブ

 

 先ほど、ブログ空間においてラーニングウェッブの実現可能性についてを考察した。これは「学校+α」の内容である。ここでは、『脱学校の社会』にいう「脱学校」を実現するにあたっての考察を行っていきたい。つまり、「学校に代わるもの」を見ていくのである。

 『学校が自由になる日』に「学校リベラリスト宣言」という内容がある。この内容は、イリッチのラーニングウェッブ理論を発展させたものだと筆者は考察する[10]

 それは①教育クーポンを使うという概念があるということ、②学校以外での学びを保障したものであることという共通点があるためである。また教育クーポンに関しては、「学校リベラリスト宣言」の方がより合理的な内容となっている。義務教育という側面を重視した内容となっているのだ。

 ここでは、「学校リベラリスト宣言」の内容の整理を行った後、イリッチとの共通点/相違点、イリッチの「ラーニングウェッブ」を発展させた点を指摘する。その後、ラーニングウェッブ実現にあたっての課題を提示する。

4、「学校リベラリスト宣言」の内容。

(1)「学校リベラリズム宣言」の狙い

 内藤朝雄は「いじめ」の専門家を自称している研究者である。著書の中でいじめが学校という「中間集団全体主義」の起こる環境で発生することを指摘する。いじめを防ぐためには現在の教育制度を再構成すべきだと主張している。

 『学校が自由になる日』掲載の「学校リベラリスト宣言」は内藤が書いたものだ。「はじめに」の部分において「宣言」の構成を述べている。

中間集団全体主義という考え方を踏まえて、学校で構造的にはびこるいじめや、生徒が共同体の感情奴隷(あるいは共生奴隷)とでもいうべき境遇におかれてしまう事態を問題にしていきます。(中略)次に自由な社会について考え、改革のプランと未来構想を示します。(内藤朝雄「学校リベラリズム宣言」、宮台真司ほか『学校が自由になる日』雲母書房、2002年、192頁)

 結果的には、引用文後段の「改革のプランと未来構想」の部分がイリッチの言う「ラーニングウェッブ」構想に類似するものとなる。

 ここで着目すべきは、この「宣言」は学校現場のいじめ問題や「生徒が共同体の感情奴隷」となる状態の解決を目的に書かれたものであるということだ。

 まず、中間集団全体主義についてを検証していく。

 内藤は次のように中間集団全体主義を定義している。

各人の人間存在が共同体を強いる集団や組織に全的に(頭のてっぺんから爪先まで)埋め込まれざるをえない強制傾向が、ある制度・政策的環境条件のもとで構造的に社会に繁茂し、金太郎飴の断面のように社会に偏在している場合に、その社会を中間集団全体主義という。(内藤朝雄『いじめの構造』講談社現代新書、2009年、253頁)

 この定義を受けた上で、内藤は次のように書いている。

戦後日本社会では、国家全体主義がおおむね弱体化したにもかかわらず、学校と会社を媒介して中間集団全体主義が受け継がれ、人々の生活を隅から隅までおおいつくしました。すなわち、国家から会社や学校といった中間集団共同体に全体主義の座が移動したわけです。(内藤朝雄「学校リベラリズム宣言」、宮台真司ほか『学校が自由になる日』雲母書房、2002年、196頁)

他者と距離を置く(あるいは縁を切る)自由がないとき、人生は悲惨になります。こういう者を「いやだな」と思ったときには、いつでも距離を調整でき、内蔵の匂いを嗅がされるような生々しいかかわりを拒否できることが大切です。(中略)やろうと思えば関係を簡単に切断することができ、そのうえで自分にフィットしたさまざまな「大切な=縁を切ることなど思いもよらない」関係を模索できる社会は、「生きやすい」そして「美しい関係を形成しやすい」社会です。(内藤朝雄「学校リベラリズム宣言」、宮台真司ほか『学校が自由になる日』雲母書房、2002年、215頁)

 内藤は、いじめや学校の過ごしにくさの理由として、学校に中間集団全体主義があるということを指摘する。「宣言」ではこの中間集団全体主義の検証後、既存とは異なる「教育制度の根本的改革案」を提示している。

 内藤の『いじめの構造』は、「学校のいじめについて、分析を行い、『なぜいじめが起こるのか』について、いじめの構造とシステムを見いだそうとする試みの書」(内藤朝雄『いじめの構造』講談社現代新書、2009年、3頁)である。キーワードとして内藤は「群生秩序[11]」や「中間集団全体主義」などの学校的なあり方・システム(「学校化」されたシステム)を提示する。そして、これらによっていじめが引き起こされるということを示している。

 なお、イリッチも内藤が指摘した点を『脱学校の社会』において指摘をしている。

学校は最悪の状態にあるときには、学級の仲間全員を同じ部屋に集め、数学、公民、および綴字などを(個人差を無視して)全員に全く同じ順序で教えるのである。学校が最良の状態にあるときは、個々の生徒は、いくつかの限られたコースの中から一つのコースを選択することが許される。しかしとにかく学校では、教師の目標を中心に、同年齢者の集団が形成されるのである。それに対して望ましい教育制度の下では、一人一人の活動が特殊化され、その活動のためにそれぞれが仲間を捜すというようなものになろう。

 たしかに、学校によって子供たちは家庭を離れ、新しい友だちに出会う機会が与えられる。しかし、それと同時にこの過程を通して、子供たちは一緒にされた同年齢者の中から友だちを選ぶべきだと観念を教え込まれる。(『脱学校の社会』168頁)

 「子供たちは一緒にされた同年齢者の中から友だちを選ぶべきだ」という「観念」の「教え込」み。いわば隠れたカリキュラムである。内藤が「学校リベラリズム宣言」で語っている中間集団全体主義とは、〈クラス内で友人を作らないといけない〉〈クラス内は仲良くしないといけない〉というメッセージに基づいて、常に周りの「ノリ」を気にしなければならない状況のことを指摘している。イリッチの指摘と同じである。

 先のイリッチの文章の続きには、このようにある。

これに対し、若者に、彼がまだ幼い頃から他の人に会い、その人を評価し、あるいはまた他の人を捜し出すなどの魅力を感じさせるならば、彼らに新しいことをするために新しい相手を見つけるということへの関心を一生涯、持ち続けさせる準備となろう。(同168頁)

 これはフリースクール(東京シューレ)を思い起こす光景だ。特定のクラスという集団の構成員と、無理やりでも仲良くしなければならない状態を、内藤は「中間集団全体主義」と呼んだ。そして、この「中間集団全体主義」こそが凄惨ないじめの原因であると指摘しているのである。

(2)「学校リベラリズム宣言」の、「教育制度の根本的改革案」

 

 ここから、イリッチのラーニングウェッブ構想に近い概念が登場する。なお、内藤のプランは義務教育と権利教育の二つに分けられるが、ラーニングウェッブ構想に近いのは権利教育の方である(特に、その中の「クオリティ・オブ・ライフ系」が近い)。

 イリッチとの違いとして、学習内容の整理を行う所から記述がはじまっている。

まず義務教育と権利教育を分けます。義務教育は強制してでも身につけさせなければならない基本に関して子どもの保護者に義務を課すタイプの教育です。ここで義務教育の「義務」を、次の二つに限定します。

 ①(a)生活の基盤を維持するのに必要最低限の日本語と、(b)お金をつかって生活するのに必要最低限の算数と、(c)身を守るための法律と公的機関の利用法に関する、国家試験を受けさせる親の義務。②国家試験に落ち続けた場合には教育チケットを消化させる親の義務。義務教育の「義務」はこの二つだけです。子どもに試験を受けさせない場合と、子どもが試験に落ち続けているにもかかわらず教育チケットを消化しない場合に限って、保護者は処罰されます。(内藤朝雄「学校リベラリズム宣言」、宮台真司ほか『学校が自由になる日』雲母書房、2002年、250頁)

 この①の(a)(c)の内容について、「ナショナルミニマム」と呼ぶことができるであろう。ナショナルミニマムとは、義務教育内で最低限必要とされる学習内容のことである。岡本薫は「すべての子どもたちに必要なこと」と呼んでいる。

「すべての子どもたちに必要なこと」は、「すべての国民」の意見やニーズを踏まえて、最終的には、憲法のルールに従い国会によって特定されるべきものだ。したがって、まず、PTA、市民団体、経済団体、学界、職能団体、各政党などが、それぞれ、断片的・抽象的でなく総合的・具体的な提案を行うべきである。

 これは「ナショナル・ミニマム」と呼ぶべきものだが、規制緩和・自由化・分権化の時代においては、各自治体が、ナショナル・ミニマムを超える「ローカル・ミニマム」を独自に設定することも検証すべきだろう。(岡本薫『日本を滅ぼす教育論議』講談社現代新書、2006年、103104頁)

 ナショナル・ミニマム(後述する山下和也の文章でいう「社会人人格を最低限担えるだけのコード」も指す)とは、強制してでも学ばせなければ、個人が社会で生きていくことが困難とされる、社会が個人に規定する学習内容である。イリッチのラーニングウェッブ構想では、ナショナル・ミニマムを想定してはいなかった。

 ここでいう教育チケットについての説明は、次の引用文内に書かれている。

教育チケットは教育のみに利用できる特殊貨幣で、義務教育用と権利教育用の二種類があります。義務教育用チケットは国家試験に合格するまで無制限に与えられます。権利教育用チケットは、収入に対して逆比例的に行政から配分されます。この逆比例傾向を強くすることによって機会の平等を確保することができます。もちろん通常の貨幣を使用することもできます。(内藤朝雄「学校リベラリズム宣言」、宮台真司ほか『学校が自由になる日』雲母書房、2002年、250251頁)

 注目すべきは①「国家試験」が存在すること、②「義務教育」と「権利教育」に内容を分けること、③「権利教育用教育クーポン」の配分は「収入に逆比例」することである。イリッチの「ラーニングウェッブ」の欠点を解消するのが、ここに指摘した3点であろう。

①「国家試験」の存在

 ①について見てみる。イリッチは『脱学校の社会』の中で、制度化された学び(学校化)を批判した。それは「教えられたことを学んだことの結果だと考える」ことの弊害を謳ったものである。

 『脱学校の社会』においてイリッチは中国の科挙制度を評価する。それは学んだ課程を全く考慮しないことの意義を謳った制度であるためだ。

三千年にわたって、中国はどこでどのような教育を受けたかという教育の過程を問題としないで、官吏登用試験に合格しさえすれば特権を与えることにより、比較的高度の学習がなされることを保護してきた。(『脱学校の社会』139頁)

 イリッチのこの引用文を見るならば、個人の能力を把握する上で「国家試験」を実施することは非常に意義深いことであるといえる。

 なお、現状にも「国家試験」にあたる高等学校卒業程度認定試験(旧 大学入学資格検定)や中学校卒業程度認定試験[12]がすでに存在している。

②「義務教育」と「権利教育」に分けるということ

 ②について見てみる。山下和也の文章には、社会が子どもに学んでほしいコード(つまりナショナルミニマムの知識)を学ばせなければ社会が成立していかない、と指摘し、次のようにまとめている。

将来どの人格を担うにしろ、その社会における社会人人格を最低限担えるだけのコードを前もって習得させておく必要が生じ、そのために特化した教育システムが分化してきました。これがつまり普通教育です。(山下和也『オートポイエーシスの教育』近代文芸社、2007年、123124頁)

 ここにある「社会人人格を最低限担えるだけのコード」というものが、ナショナルミニマムの知識を指す。ナショナルミニマムの知識を子どもに習得させる際、「学校での教育があわない」と主張する子どもたち(不登校の子どもたち)にも適合した教育内容が必要となってくる。

 「不登校の子どもの権利宣言」という文章がある。これは筆者も参加した「全国子ども交流合宿『ぱおぱお』」(期間 2009年8月22日〜23日、会場 早稲田大学)のエンディングにおいて採択された文章である。「不登校の私たちの権利を伝えるため、すべてのおとなたたちに向けて私たちは声をあげます」(前文)との意志を持って採択されている。この文章は、実際に不登校の子どもたちが話し合い、まとめたものである。この2条と3条、7条を引用する。

二、学ぶ権利

私たちには、学びたいことを自身にあった方法で学ぶ権利がある。学びとは、私たちの意志で知ることであり他者から強制されるものではない。私たちは、生きていく中で多くのことを学んでいる。[13]

三、学び・育ちのあり方を選ぶ権利

私たちには、学校、フリースクール、フリースペース、ホームエジュケーション(家で過ごし・学ぶ)など、どのように学び・育つかを選ぶ権利がある。おとなは、学校に行くことが当たり前だという考えを子どもに押し付けないでほしい。

七、公的な費用による保障を受ける権利

学校外の学び・育ちを選んだ私たちにも、学校に行っている子どもと同じように公的な費用による保障を受ける権利がある。

例えば、フリースクール・フリースペースに所属している、小・中学生と高校生は通学定期券が保障されているが、高校に在籍していない子どもたちには保障されていない。すべての子どもが平等に公的費用を受けられる社会にしてほしい。

 この文章の「三、学び・育ちのあり方を選ぶ権利」を保障するものが、内藤のいう教育チケット制度であると考える。学校と違い強制されない学びというものに目を向けていく必要があると考えられる。

③「権利教育用教育クーポン」の配分を「収入に逆比例」すること

 最後に③について見ていく。引用文内に「機会の平等」という概念があった。宮台真司の著書に〈教育において結果の平等を求めることは不可能で、機会の平等を確保することが必要〉との趣旨のものがあった。結果の平等の実現は、個人の能力に差がない社会でなければ実現不可能である。結果の平等を目指す政策は、個人の能力差に全く着目をしていないため無意味な政策であると考える。結果の平等よりも必要なのは、出生した場所・両親の学歴や所得に関係なく、「能力に応じて等しく教育を受ける」(日本国憲法)権利を確保することである。そのため、両親の収入という「能力に応じ」ない要素により教育機会が阻害されることの無いよう、「権利教育用チケットは、収入に対して逆比例的に行政から配分され」るという政策が必要となってくる。

(2)内藤プランの後、どんな変化があるか?

 内藤によれば、この教育チケット制が導入されることで「さまざまな学習サポート団体が街に林立し、学習者は質のよい団体を自由に選択し、チケットを渡します」(同、251頁)という現象が見られるようになるという。

 内藤のプランでは「義務教育」と「権利教育」とに分ける所から始まると説明した。先に「義務教育」のプランから見ていく。

義務教育の国家試験に合格するために、どんな学習の仕方をしようと自由です。各人は試行錯誤しながら、自分に馴染んだ学習スタイルをつくり上げます。さまざまな学習サポート団体は、その試行錯誤のために「街に出てチケットを使ってみよう」と誘惑します。(同、251頁)

 私は「街に出てチケットを使ってみよう」と誘惑するもののひとつに、フリースクールなどの「子どもの居場所」的施設も含むことが出来るのではないか、と考察する。

 内藤はこの制度を導入することで、本来的な学びの回復を図ることができると指摘する。たとえば、「知力の低い子どもには、現在の学校をはるかに超えた質の高いサービスが提供される」(同、251252頁)のと同時に、自主的に学習を進める子どもが「何年間も無意味に学校のいすに座り続ける拷問から解放される」(同、252頁)のである。個に応じた学習が可能になるというメリットがある。

 また、現状の学校では教員やクラスメイトの顔色を伺いつつ過ごすという無意味な努力(ひどければいじめ)を行わざるを得ない状況があるが、それを回避できるという点もメリットであろう。内藤のいうように、他人を伺いつつ過ごすこと(学級のメンバーとクラス内で無理やり閉じ込められること)と、学びを行うことは全く異なるものなのである。

 内藤の『〈いじめ学〉の時代』(柏書房、2007年)にも、教育チケットについて言及が「未来の教育制度」(217頁)として紹介されている。「国家試験に受かるためにどんな勉強の仕方をしようと自由ですし、必ずしも学校で勉強することを選択する必要もありません」(218頁)と書かれている。この記述から見ればフリースクールなどの場所での学習も可能だ、と見なされているようだ。

内藤の「権利教育」の定義

 「権利教育」について、内藤の文章を見てみる。

権利教育は、当人が自己の意志によって参加する権利を有する教育です。権利教育は生涯教育に含めます。年齢制限はありません。権利教育の対象は子どもから老人までのすべての市民です。また権利教育の場所は、老若男女が混じる市民的な空間です。さまざまな年齢の人たちが混じり合って、対等な市民として交際するのが市民状態です。

 ここで人生初期限定の義務教育を縮小した分(藤本注 「義務教育」チケットは必要最低限の教育しか扱っていない。このことを指す)、その何倍も権利教育を拡大します。学校教育から生涯教育・社会教育への重点移動を、教育を受ける権利の拡大として行うのです。(『学校が自由になる日』252頁)

 権利教育は生涯教育[14]とも連動した教育である。さきほどの「義務教育」用の教育チケットよりもイリッチのラーニング・ウェッブ概念に近いものとなっている。「義務教育」の場合、チケットを使うのは(ラーニング・ウェッブではなく)学習塾の形式に近いものがイメージされるためである。

 権利教育について、内藤の『〈いじめ学〉の時代』に簡潔な説明が掲載されている[15]ので、そこから内容をまとめる(『〈いじめ学〉の時代』219220頁)。

 内藤は権利教育を①「学術系」、②「技能習得系」、③「クオリティ・オブ・ライフ系」の3つに分ける。①と②の「学術系と技能習得系はいずれも国家試験や業界団体試験の合格を目的としており、職業キャリアの形成にも大いに関係のあるものです」(同)と述べている。①と②の記述をさらにまとめる。

①「学術系」:「『学をつける』ことを目的とします」・「これまでの学校で必修科目だった外国語、理科、歴史、地理などの分野も含んで」いる。

②「技能習得系」:「『手に職をつける』ことを目的としています」・「職種に応じた技能系の資格をえるためのもの」。

 ①が現状の学校教育のうち知育に関するものであるなら、②は職業教育に関するものである。

 ③だけは異なっている。「この部門は、芸術やスポーツ、旅行など、学ぶ人の興味に従って様々なことを楽しむためのもの」となっており、「クラブ活動、部活動」に似ている。けれど「生徒はここでただ楽しみを享受するのが目的となります(試験はありません)」とある。「各地に林立する市民クラブが母体」となり、「クラブを自由に選び、行ったり来たりすることが可能」になる。「そこでの親睦や、人間関係の試行錯誤を通じて、子どもたちは自分に相応しい、人生のスタイルを模索していくことになります」というのが内藤のプランである。社会教育的活動が重視されている。

 重要なのは「どのクラブにも同時に並行して参加でき、興味がなくなったクラブには、その日から行かなくても全く構いません」という点である。先に内藤の中間集団全体主義の話をした。人々が自由にクラブを行き来するとき、中間集団は固定されない。イヤな相手とも仲良くしないといけない状態は起こらない。

(3)内藤朝雄と藤田英典の論争

 早稲田大学教師教育研究所が20098月1日におこなったシンポジウムがある。テーマは「学力低下・いじめ・学級崩壊から学級・学校の創造へ」であった。パネリストは藤田英典(国際基督教大学)・菊地栄治(早稲田大学)・内藤朝雄(明治大学)である。

 このシンポジウム後半において、藤田と内藤の論争が行われた。これは会場の聴衆も巻き込んでの議論となった。テーマは「学校での教育を減らし、社会教育を広げていくべきか、否か」である。

 内藤が〈学校教育の予算を減らすか、そのままに保った状態で、社会教育に予算を与えよ〉と主張をした。そして子どもたちが学校教育か社会教育かを選択していけるようにすることを提唱する。学校では学問的な内容のみを教授し、「美しい」教育実践は社会教育に移し、子どもと大人が一緒に学ぶ方がいいのではないか、とまとめた。ちょうど「学校リベラリズム宣言」と同様の趣旨である。

 藤田はそれに対し、ドイツの現状を示した。〈先進国の中で最も少年非行が多い国はドイツである。そうなった理由は何か〉、と問うたのだ。藤田によると、ドイツでは社会教育を教育制度として導入していた。その結果、企業による徒弟教育制度などが行われはじめた。はじめはうまく回っていたが、90年代の金融危機で社会教育費が真っ先に削られた。企業も協力的ではなくなった。そのため、教育の受け皿を失った青少年が非行を行うようになったのだ。こう藤田は続けた。

 このシンポジウムの内容は、イリッチのラーニング・ウェッブの実現可能性を考える上で重要な要素を持つと考える。一方的に社会、特に資本主義に教育を任せたとしても、決して成功するわけではないのだ、という点である。

企業にメセナを求める動きがある。ある意味、徒弟制度の導入などの社会教育は「メセナ」である。社会教育という公共性があるためだ。けれど、メセナは不況下ではあまり行われなくなる。

 [メセナの活動が]一番活動が華やかだったのは一九八〇年代後半のバブル期で、各社がイメージアップに力を入れていました。一九八七年に当時の安田火災(現・損保ジャパン)がゴッホの「ひまわり」を五八億円で購入したのが象徴的な出来事でした。

 しかし、バブル崩壊後の経営悪化の中で資金的な余裕がなくなった企業は、スポーツ支援や文化・芸術支援をどんどん削減して来ました。(山本冬彦『週末はギャラリーめぐり』ちくま新書、2009

[  ]内は藤本。

 経済不況下においても、教育は続いていく必要がある。企業のメセナ活動やCSR活動に社会教育を任せ、それでよしとする姿勢は危険な態度である。

 スポンヴィルの『資本主義に徳はあるか』という本がある。資本主義は経済合理性に伴う思想であるため、資本主義に人間性や「徳」を求めるのはお門違いなのだ、と説いた本である。藤田の示すドイツの現状は、まさに資本主義に徳を求めた(教育を任せた)ゆえに起きた出来事であった。

 シンポジウム内で、内藤・藤田の論争とともに聴衆(現職教員も多い)から内藤への批判も起こる。最終的には内藤自身が〈経済状態が良い状態でしか実践できない改革だ〉と答える結果となる。シンポジウムの結論的には、経済不況下においてプライベートセクション(私企業など)が教育を請け負うのは危険だ、という理由から藤田に内藤が押し切られる形となった。

もっとも、議論中に「教育クーポン」という「学校リベラリズム宣言」の概念が出ていなかった。教育クーポン制度導入の上で行うならば、税金により社会教育も行われるので、好況/不況に関わらず実践可能なのではないかと私は感じた。そうすれば先の〈メセナは不況下では行われなくなる〉という危険性を回避することができるのである。

 なお、梅田のいうブログによる私塾は、「学校+α」の内容なので、特に経済不況を考慮する必要はない。「学校」という基本的教育制度は残っているからだ。費用も電気代やネット使用料程度しかかからない。

結論

 先にも書いたが、イリッチは脱学校化した教育、つまり代案を積極的には提示しなかった。代案の参考例として示したのがラーニング・ウェッブ構想だったのである。

 本項目ではラーニング・ウェッブを現在の社会で行う場合、どのようにすれば実現可能かを考察した。それには「学校+α」のあり方と「学校に代わるもの」を目指すあり方の2つがある。前者は梅田の言うブログを活用したやり方、後者は内藤の言う教育クーポンを活用するやり方で説明を試みた。


【第三部】フリースクール的「学び」のあり方

「渇き」による学びの重要性

 先に見てきたように、内藤は近代社会を生きるうえで必要最低限の知識であるナショナルミニマムを習得することを重要視する。

最低限範囲の試験に子どもが落ち続けた場合、個人指導の『教育チケット』を消化することも、保護者に対しては義務づけられます。子どもが試験に落ち続けているのにこのチケットを消化しない場合に限って、保護者は処罰されます」(『〈いじめ学〉の時代』218頁)

 このナショナルミニマムだけは、〈無理やりでも学ばせないといけない〉という発想から抜け出せていない。しかし私はほんの少しであってもこの発想に行き着くことは危険な気がしてならない。

 「学校化」のところで引用した宋の文章を再度引用する。

 喉が渇いたら、馬は自ら水を探します。そのときは、馬が真剣に、水の匂いを嗅ぎ分け、道を探すのです。
 水がいらない馬を、川に引っ張っていくことは、ムダなことであり、自己満足にすぎません。
 渇きこそ、モチベーションの源泉です。
 他人に与えられるのではなく、自分で感じ取るものです。
 生きていれば、必ず渇くときがあります。
 他人にモチベーションを上げてもらおうと考えた瞬間に、モチベーションの炎が、あなたの心から消え去ります。(
宋文洲『社員のモチベーションは上げるな!』幻冬社、2009年、67頁)

 不必要だと思う人間に対しては、フリースクール(特に東京シューレ。海外ではサドベリーバレースクールなど)は無理に学ばせない。のんびり・ゆっくり過ごすことの推奨すら行う。子どもが「学びたい」と思うまで「待つ」姿勢を貫いているのだ。だからこそ、時間が経つかもしれないが、宋の文章で言う「渇き」が起こるのだろう。渇きをいやすために水を飲むとき、馬は脇目をせずに一心不乱に飲み続ける。「渇き」が起きた時の学びもそれと同じであろう。

 『不登校という生き方』に「進学先を選択する」という項目がある。フリースクールに通う子どもたちのうち、高校・大学への進学を希望する子どもたちについて書いているところである。奥地は「志望した人のかなりが高校や大学に受かっています。そしてどうやらついていけるようです。もちろん、受験をすると決めたら、少しは、または熱心に本人が勉強しています。しかし、学校に行っていた子と比べ、圧倒的に勉強量の差はある。それでも合格するし、ついていける」(『不登校という生き方』127頁)と述べている。その理由は何故か。

 これは、「ヒロベン」(広い勉強のこと)をしているからです。何をしていても広い意味で勉強になっています。テレビ、本、マンガ、新聞、ゲームなどでも、知識、認識は広がっています。そういった土台があり、必要な時に勉強をやれば身につくのだと思います。予備校に行く、学習塾に行く、家庭教師に来てもらうなどの方法を取った人もいるし、一人で勉強して合格した人もいます。

 ポイントは、本当に進学したいのかどうか、ということでしょう。入りたい目的がはっきりしていることも重要です。やりたいことには、自然にエネルギーが出るからうまくいきます。実際、わが家でも、東京シューレでも、それほど長い期間ではないですが、猛烈に勉強に取り組む姿をみました。感心したのですが、何のことはない、それまでのいっぱい休息し、遊び、充電している子が不登校には多いですから、いざ、本気でやろうという時には、すごいエネルギーが出るわけです。(『不登校という生き方』127128頁)


 宮台真司の描く自伝的エッセイの中にも、こんな話がある。高校三年生までは遊んでいた生徒の方が受験の直前になると、ずっとコツコツ勉強していた生徒の成績を抜くという話だ(『日本の難点』)。重要なのは学ぶ気がないとき(「渇き」がないとき)は無理して学ばせないことであろう。真に水を欲した際、「すごいエネルギーが出る」ことになるのであろう。

 強制的に「学ばせよう」とすることに、それほど意義がないように思われるのである。

子どもの学習の発動は自主的判断によって行われるのか? それとも強制か?

 山下和也の『オートポイエーシスの教育』という本がある。本書において山下は、2通りの教育コミュニケーションが存在していることを説明する。ひとつは、「全体としての社会システムの期待される人格一般としての人格の担い手の育成を期待する」普通教育コミュニケーションである。もうひとつは「特定の社会システムの特定の人格の担い手育成を期待する」専門教育コミュニケーションである(117頁)。

 現在では、普通教育コミュニケーションは最低限必要な基準であると考えられている。いわゆる義務教育だ。社会の一員となるに当たり、「ないと困る」レベルの内容である。ナショナルミニマムと言い換えることができるであろう。一方、専門教育コミュニケーションは、個人に応じ要求されるものが異なってくる。山下の言葉を使うと、将来担う人格に応じて専門教育コミュニケーションの中身は変わっていくのである。

 この言葉を説明した後、山下は次のように語る。これはイリッチの「ラーニング・ウェッブ」の欠点を指摘したものだ。

 将来どの人格を担うにしろ、その社会における社会人人格を最低限担えるだけのコードを前もって習得させておく必要が生じ、そのために特化した教育システムが分化してきました。これがつまり普通教育です。技能教育のネットワーク化を唱えて学校を否定するイリッチ[16]が見落としているのがこの点で、何を学ぶべきかが個人個人にわかっていないからこそ、学校による普通教育が必要なのです。独学の困難は学ぶべきことの選別にこそ存するのですから。(山下和也『オートポイエーシスの教育』近代文芸社、2007年、123124頁)

山下の言葉のうち、個人は「何を学ぶべきか」「わかっていない」という点が印象的だ。内田樹の語り口を思い出す。『日本辺境論』において、内田は次のように語っている。

学びは学んだ後になってはじめて自分が学んだことの意味や有用性について語れるようになるという順逆が逆転したかたちで構造化されています。私たちが学ぶのは、学ぶとどんな「いいこと」があるかが確実に予見されているからではありません。学ぶことによって、学ぶ前にはそのようなものがこの世に存在することさえ知らなかった「いいこと」が事後的に私たちの知に登録されてゆくのです。(内田樹『日本辺境論』新潮新書、2009年、137頁)

ある程度学びが進まない限り、「これを学びたい!」という感情が起こることはないと内田は言う。

ヒロベンの可能性

山下・内田の指摘についてだが、フリースクールの理念を思い出すと、いささか疑問も感じられる。

 フリースクールの「自由な教育」は、「勉強しない自由」も認めている。奥地圭子のいう「ヒロベン」(広い勉強)が行われているから、いまは遊んでいてもいいのだ、という態度である。なお、佐藤学のことばを使うなら、奥地が「ヒロベン」というとき、「勉強」というより「学び」が起きていると考えた方がいいだろう。

 『超・学校』に紹介されたサドベリーバレースクールの実践も、「ヒロベン」である。生徒達は何をしてもいい。一日中、釣りを続けてもいいし、学校に来なくてもいい。「これを学べ」とは決して教師が言わず、「これを授業して下さい」と子どもがいうまで、教師はものを教えない。「教育とは待つということだ」という言葉があるが、サドベリー・バレーはそれを地でいく学校(語弊があるなら「学び場」か?)である。

 サドベリー・バレーのようなフリースクールにおいて、「普通教育」を行っているといえるのか? 「ヒロベン」という便利な言葉を使うなら、「ヒロベン」を「普通教育」と考えられるのだろうか? 山下は学校内での、制度としての授業を「普通教育」と考えてるようだが、制度によらない「ヒロベン」を「普通教育」ととらえてもよいのであろうか?

 フリースクールなどの「自由な教育」の中で、「最低限必要な学習」が行われることを説明できるなら、いま以上にフリースクールが教育界で重視される存在となると考えることができる。

フリースクールの「ヒロベン」は「普通教育」か否か?

 自分で書いておいてこう言うのもどうかとは思うが、先に書いた結論はフリースクールの命取りともなるような気がしてならない。イリッチは「価値の制度化」という状況への批判を『脱学校の社会』で行ってきた。

イリッチのいうラーニングウェッブやフリースクールに、「普通教育を行いなさい」と伝えることは、フリースクールの「フリー」さを損ねる結果となるのではないか。「学習のほとんどは教えられたことの結果だ」と考えるのが価値の制度化・「学校化」現象であることはすでに述べた。「自由」がウリのフリースクールに、「これを行いなさい」ということは「価値の制度化」といえなくもない。

 方向性としては、いまフリースクールで繰り広げられている学びを、山下の言う「普通教育」ととらえていくという姿勢が必要となるのだろう。東京シューレなど「フリースクール全国ネットワーク[17]」(通称 フリネット)加盟団体であればこの考え方でいい。

フリースクールの「フリースクール」性をいかに担保するか?

 ただし、これは団体に入っているからOK、というわけではない(それでは「価値の制度化」である)。団体加盟の際に、加盟条件に適った団体かをチェックする機能が働いているからOKとみなすのである。対象のフリースクールにフリネットの理事が赴き、無理に子どもに教育を与えようとする組織は、外されている。

しかしながら、このチェック機能にも残念ながら穴がある。加盟後に不適切な行動をしはじめる団体へのチェックを行えない点だ。実際、フリースクール全国ネットワークの活動を見てみると、フリネットの諸活動に参加しない団体へのチェック機能がないように思える(あくまで、フリネットにボランティアをしている私からの視点ではあるが)。

また「総会」やその他活動にフリースクールの代表者が参加していても、適切なフリースクール運営をしているかを、フリネットのメンバーが確認することはほとんどない。加盟数が50に満たない現在は、それでも運営されるかもしれない。けれど、数が増えて超えてくると、誰も実体を知らない組織が加盟団体内に存在することになる可能性がある。絶えず加盟団体の行動をチェックする機構がフリネットに存在するのか否か。それが今後のフリネットの発展の鍵であると思う。

 話が脱線したが、フリースクールだから「普通教育」が「ヒロベン」の名で行われているのだろう、と思うことに危険が伴うのだと私は考えているのである。下手に「フリースクールには『普通教育』を制度としては取りいれない」とした場合、「フリースクール」という名称が名ばかりとなっているような学びの場(後述する丹波ナチュラルスクールなど)に対し、「もっと○○な教育を行いなさい」と指示を行えないことになってしまう。

 この問題も、自称「フリースクール」と、「フリースクールの理念に合致した真のフリースクール」が明確に区別され、第三者機関[18]によって評価される時代が来たら、解決するであろう。現段階では「フリースクール全国ネットワーク」加盟のフリースクールを、典型的な「フリースクール」であると考えておくのが無難なようである。

 けれど、その第三者機関もたえず「価値の制度化」に注意しないならば、やはり「フリースクール」の「フリー」性を損ねる結果となる。理想の教育像は個々の子ども・大人によって異なる。それを結果的に損ねる可能性があるように思われる。

 なお、「フリースクール全国ネットワーク」などのフリースクール諸団体については、「6、補論」を参照されたい。また「丹波ナチュラルスクール」についても、補論を参照していただきたい。


6、補論

 ここでは、本論の説明の補助として、次の2つの項目について論を進めていく。

 

(1)フリースクールの全国組織の比較

(2)丹波ナチュラルスクールについて。あるいは、フリネットとマスコミとの「フリースクール」認識の乖離について。

 まず(1)から見ていこう。

補論(1)フリースクールの全国組織の比較

 本論中で、フリースクールの全国組織についての言及を行った。ここでは、フリースクールの全国組織について比較研究を行った結果を述べる。

フリースクールに関しての全国団体には3つがある。日本フリースクール協会とフリースクール全国ネットワーク、日本オルタナティブスクール協会の3つである。はじめに、日本フリースクール協会とフリースクール全国ネットワークの比較を行う。
 両者は何が違うのかを比較してみる。

 はじめに日本フリースクール協会(JFSA)からみていきたい。こちらは「日本初のフリースクールのネットワーク団体」と謳っている。自団体についての説明を見る。http://www.t-net.ne.jp/~eisei/jfsa/jigyou/jigyou.htmlより。


1998
5月に発足したNPO法人日本フリースクール協会は「不登校」・「引きこもり」等に対して、学校教育の枠にとらわれない「学びの場・居場所作り」を目指して活動している教育機関です。活動は年間数回のセミナー・相談会を実施しております。

 続いてフリースクール全国ネットワーク(通称 フリネット)を見てみる。フリネットは世界フリースクール大会(IDEC)が2001年に日本で開催された際、集ったフリースクールが結成した組織である。なお、筆者はフリネットでボランティアを2009年4月から行っている。フリースクール全国ネットワークのWEBから引用する。http://www.freeschoolnetwork.jp/#%E3%81%8A%E3%81%97%E3%82%89%E3%81%9B

NPO法人フリースクール全国ネットワークは、日本全国の、子どもの立場に立ち活動するフリースクールをつなぐネットワーク団体として200123日に誕生しました。各地のフリースクール・居場所、または世界中のフリースクールとの架け橋として活動しています。

 発足年では日本フリースクール協会の方が3年ほど早い。
 続いて、加盟団体数を見てみる(20094月現在)。日本フリースクール協会は41団体である。一方、フリースクール全国ネットワークは45団体。若干ではあるが、フリースクール全国ネットワークの方が多い。
 加盟団体で見ると、日本フリースクール協会にはサポート校などの「学習」寄りのものが多い。「対人関係の回復」など、学校復帰色が強い。また「このフリースクールではこういうことが学べます」という、学習重視的視点を謳っているフリースクールが多くある点が印象的である。

一方、フリースクール全国ネットワークは「過ごす」ことを重視したフリースクールが多い。「子どもの居場所」というワードが、各フリースクールの紹介に多く上がっている点からも明らかだ。子どもが自由に過ごし、学びたいときに学び、遊びたいときに遊び、帰りたいときに帰る。フリースクール全国ネットワークにはこういう色が強い。

なお、フリースクール全国ネットワーク側は、日本フリースクール協会に対し、批判的な立場にある。『フリースクールとはなにか』の記述を引用する。

最近、日本のフリースクール事情は新しい状況に直面している。前述したようなフリースクールではなく、これまでのフリースクールの概念を混乱させる、新手のかたちのフリースクールが出てきている。それは、学習塾・予備校、サポート校などの塾産業が、フリースクールを名乗り始めたことからくる。それらの団体が連携し、日本フリースクール協会を立ち上げ、大手マスコミもそちらを記事にするなどして、親・市民・子どもから見て、フリースクールとは何かがよくわからない状況になってきている。(中略)学校補完業としての塾産業は、学校と並立してオルタナティブ性をもっていたフリースクールと異なる位置にあったにもかかわらず、フリースクールを名乗ることにより、フリースクールの学校下請化の危険性を高めてしまっている。(NPO法人東京シューレ編『フリースクールとはなにか』教育史料出版会、2000年、33頁)

 続けて『フリースクールとはなにか』では、「少子化のあおりを受け、立ちゆかなくなった塾産業は、さまざまな生き残り策を講じ始めたが、その一つが、激増する不登校・高校中退をターゲットにすることであった」(同、33頁)と述べている。フリースクール全国ネットワーク所属のフリースクールは「子どもの居場所」という側面から活動を開始したのに対し、日本フリースクール協会は営業目的で活動を始めたということを批判しているのである。そのため、「東京シューレとはとても教育観が異なり、(日本フリースクール)協会には参加しなかった」(同、34頁、(  )内は藤本)とまとめられている。

しかしながら、「フリースクール@なります」と「ポケットフリースクール」というフリースクールは両団体に加盟をしている。両団体の壁は意外に薄いのかもしれないと感じる。

 最後に、日本オルタナティブスクール協会(JASA)を見てみる。

これまでの学校教育における、「いじめ」「不登校」「校内暴力」などの様々な歪みや弊害を改革するための教育活動を行い、全国に広がっている通信制サポート校。
その通信制サポート校が、厳しいガイドラインを設け、自主規制を行いながら、行政や社会に対して認知活動を行うことを目的に、1996年、全国通信制サポート校協議会を発足させました。そしてこの協会が、より幅広い活動をするために、またより明確に会のあり方を示すために、2000年3月1日付をもって 名称を変更し「日本オルタナティブスクール協会」とし、現在に至っております。(日本オルタナティブスクール協会WEBサイト
http://www.jasa.ne.jp/about/index.html

こちらは日本フリースクール協会以上に、サポート校[19]の集まりという色がハッキリ出ている。8「校」が加盟。日本オルタナティブスクール協会は、はっきりと「加盟校」という。学校扱いなのだ。学校色の薄いフリースクールならば「団体」という言い方をよく使う。現にフリネットや日本フリースクール協会は「団体」の名称を使用している。

「学習」寄りか、「過ごす」(あるいは「子どもの居場所」)寄りか。「学習」寄りの順に並べると、日本オルタナティブスクール協会・日本フリースクール協会・フリースクール全国ネットワーク、となる。日本オルタナティブスクール協会と日本フリースクール協会は学習寄り・「学校復帰」という側面が強い。けれど、フリースクール全国ネットワークは「過ごす」「子どもの居場所」としての側面が大きい。子どもの自主性に応じて、勉強するのもしないのも自由という考え方が強いのだ。

筆者は「子どもの居場所」を重視する側面から、フリースクール全国ネットワーク加盟の団体を典型的なフリースクールとして考えている。それは、ニイルが作った世界初のフリースクールであるサマーヒルスクールに近いからである。子ども自身が何を学ぶのかを考えていく態度。これこそが、フリースクールが「フリー」を名乗る原点となると考えるからである。


補論(2)丹波ナチュラルスクールについて。あるいは、フリネットとマスコミとの「フリースクール」認識の乖離について。

 2008年に問題になった丹波ナチュラルスクールについて見てみる。この事件の概要についてを、フリースクール全国ネットワークが2008925日に出した「丹波ナチュラルスクール暴行事件に関するアピール」から見ていく。

ひきこもりや不登校・家庭内暴力などの子ども・成人を寄宿させ預かる『丹波ナチュラルスクール』の経営者らが、99日京都府警に逮捕されました。きっかけは、入所者ら12人が鍵つきの部屋に監禁されていましたが、そのうち17日間の怪我を負った女子中学生が脱走し、コンビニにかけこみ、店員の通報で南丹署に保護された事からでした。以後、この施設の日常的暴力、食事、入浴、トイレなどの非人間的扱い、拉致と呼べるような「お迎え」、入所直後従順にさせるための暴行などの実態が次々と明るみに出されました。また、親の面会は初期3ヶ月は禁止、面会も本堂に限られ、生活場面は見せられず、月謝は10万~20万、入所時に200万~350万円の多額な費用が入用でした。(フリースクール全国ネットワークWEBサイト内「丹波ナチュラルスクール暴行事件に関するアピール」

http://www.freeschoolnetwork.jp/sekaikaramita.htm)

 この引用文のあと、同「アピール」では次のように述べられている。

また、丹波ナチュラルスクールは、フリースクールと報道されていますが、それについても問題を感じます。丹波ナチュラルスクールは系列としては、かつて似た人権侵害をひきおこした戸塚ヨットスクール、不動塾、風の子学園、アイメンタルスクールと同様、矯正施設といえます。日本にフリースクールが誕生した1980年代、誰も戸塚ヨットスクールなどのことをフリースクールと呼ぶ人はいませんでした。しかし、90年代様々な不登校の受け皿が増えるにつれ、不登校の子どもが行くところがフリースクールと呼ばれるようになり概念の混乱が生じています。(フリースクール全国ネットワークWEBサイト内「丹波ナチュラルスクール暴行事件に関するアピール」

http://www.freeschoolnetwork.jp/sekaikaramita.htm 2009827日参照)

現状のマスコミがフリースクールとの名称を使用していることへ批判を行っている。

なお2009827日付けの読売新聞ネットニュース

http://osaka.yomiuri.co.jp/news/20090827-OYO1T00502.htm?from=main1)では「京都府京丹波町のフリースクール『丹波ナチュラルスクール』」と記載し、丹波ナチュラルスクールも「フリースクール」であると説明をしている。

「フリースクール」に対しフリネットの認識と、一般マスコミの認識との間には乖離が起きている。


7、終論

 今回、卒論執筆のなかでイリッチ思想について様々な文献に目を通してきた。その作業のなかで、イリッチは「人間の復権」を形を変えて伝えようとしていたのではないか、と感じるようになった。

 例えば消費者という言葉。ただ消費だけを行う者という意味だ。人間を消費者と生産者に分けるのではない。本来、人間は生産も消費もどちらも行ってきた存在である。それを「生産者」「消費者」に分けることは人間を軽視することだ。

 教育も同じだ。本来、教育を受ける主体と教育する主体は分かれていなかったはずだ。大人が子どもを教えるとき、子どもから大人は何かを学んでいた。本来、教育とは相互依存的なものだったのだ(イリッチの相互親和、つまりconvivial)。それを「教育を授ける者=教師」、「教育される者=生徒」の関係に人間を貶めてしまった。それが「制度」のもつ問題点である。

 Convivialな生き方。これをイリッチは提唱した。相互親和、つまり人間どうしが助け合って生きる姿をイメージしている。

 イリッチは脱学校化の必要性を訴えた。それは本来的な教育が、制度化された「学校」では実現できていなかったからだ。脱学校化を図ることで、「人間の復権」を行おうとしたのだ。

イリッチは脱学校化した教育の代案を示しきれていない。ヒントとしてイリッチが示したものがラーニング・ウェッブであった。本論文ではこのラーニング・ウェッブの現代的意義を見ていったが、そこに書いたものは制度によらない「学び」のあり方であった。

 本来的な教育を取り戻せ! それがイリッチの『脱学校の社会』で伝えたかったことではないだろうか。制度によらない学び、それを私はフリースクールに求めているのである。

 本来的な「学び」を「学校」や「教育」の手から取り戻す生き方。真に自由に生きていく生き方。フリースクールにはこれが可能なように感じられる。

 私はまだまだフリースクールやイリッチの研究を始めたばかりである。謙虚に学んでいきたい。

 論文執筆後、田中智志『教育学がわかる事典』の「学校化とホモ・エデュカンドス」の項目を読んだ。私が卒論の第一部と第二部で書いた内容が大体説明されていた。わずか見開き2ページに、である。学問の道の困難さ・深遠さを感じた。
8、参考文献(著者名順)

青木久子・磯辺裕子『脱学校化社会の教育学』萌文書林、2009

朝倉景樹『登校拒否のエスノグラフィティー』彩流社、1995

アンドレ=コント=スポンヴィル著、小須田健/C=カンタン訳『資本主義に徳はあるか』紀伊国屋書店、2006

イヴァン=イリッチ著、東洋・小澤周三訳『脱学校の社会』東京創元社、1977

イヴァン=イリッチ他著、松崎巖訳『脱学校化の可能性』東京創元社、1979

I・イリイチ+P・フレイレほか著、島田裕巳+角南和宏+林淳+伊藤周訳『対話 教育を超えて』野草社、1980

I・イリイチ著、桜井直文 監訳『生きる思想(新版)反=教育/技術/生命』藤原書店、1999(旧版 1991

イバン・イリイチ著、D・ケイリー編、高島和哉訳『生きる意味「システム」「責任」「生命」への批判』藤原書店、2005

.イリイチ著、玉野井芳郎・栗林彬訳『シャドウ・ワーク』岩波書店、2006

石浦章一・谷岡義高『小学校理科 考える力を伸ばす』培風社、2008

岩内亮一・本吉修二・明石要一編集代表『教育学用語辞典 第四版』学文社、2006

上野千鶴子『サヨナラ、学校化社会』太郎次郎社、2002

内田樹『日本辺境論』新潮新書、2009

エヴェレット=ライマー著、松居弘道訳『学校は死んでいる』晶文社、1985

NPO法人東京シューレ編『フリースクールとはなにか』教育史料出版会、2000

奥地圭子『不登校という生き方』NHKブックス、2005

岡本薫『日本を滅ぼす教育論議』講談社現代新書、2006

カール=べライター著、下村哲夫訳『教育のない学校』学陽出版、1975

刈谷剛彦ら編『教育の社会学』有斐閣アルマ、2000

教育思想研究会編『教育思想事典』勁草書房、2000

齋藤孝・梅田望夫『私塾のすすめ ここから創造が生まれる』ちくま新書、2008

佐藤学「学校再生の哲学 『学びの共同体』ヴィジョンと原理と活動システム」、『現代思想』青土社、20074月号

全国不登校新聞社編『この人が語る登校拒否』講談社、2002

宋文洲『社員のモチベーションは上げるな!』幻冬社、2009

田中智志『教育学がわかる事典』日本実業出版社、2003

ダニエル=グリーンバーグ著、大沼安史訳『「超」学校』一光社、1996

東京シューレの子どもたち編『僕らしく君らしく自分色』教育資料出版、1995

内藤朝雄『〈いじめ学〉の時代』柏書房、2007

内藤朝雄『いじめの構造』講談社現代新書、2009

パウロ=フレイレ著、小沢有作ほか訳『被抑圧者の教育学』亜紀書房、1979

林隆造『教育なんていらない』大宮書房、1989

平井信義『学校嫌い』日新報道出版部、1975

藤村靖之・辻信一『テクテクノロジー革命』大月書店、2008

松田道雄『輪読会版 駄菓子屋楽校』新評論、2002

宮台真司・藤井誠二・内藤朝雄『学校が自由になる日』雲母書房、2002

宮台真司・藤井誠二『学校的日常を生き抜け』教育資料出版、1998

宮台真司『これが答えだ!新世紀を生きるための108108答』朝日文庫、2002

宮台真司『日本の難点』幻冬舎新書、2009

森重雄「学校化」、教育思想研究会編『教育思想事典』勁草書房、2000

森下伸也『社会学がわかる事典』日本実業出版社、2000

山下和也『オートポイエーシスの教育』近代文芸社、2007

山本哲士『教育の政治 子どもの国家』文化科学高等研究院出版局、2009

山本哲士『学校の幻想 教育の幻想』ちくま学芸文庫、1996

山本冬彦『週末はギャラリーめぐり』ちくま新書、2009

梅田望夫WEBサイトhttp://www.mochioumeda.com/

NPO法人日本フリースクール協会WEBサイトhttp://www.japan-freeschool.jp/

日本オルタナティブスクール協会WEBサイト

http://www.jasa.ne.jp/about/index.html

NPO法人フリースクール全国ネットワークWEBサイト

http://www.freeschoolnetwork.jp/

同サイトより「不登校の子どもの権利条約」

http://www.freeschoolnetwork.jp/kenrisengen090823.pdf

同サイトより「丹波ナチュラルスクール暴行事件に関するアピール」

http://www.freeschoolnetwork.jp/sekaikaramita.htm

*見学先一覧

・フリネット加盟団体

東京シューレ王子校(東京)

東京シューレ新宿校(東京)

東京シューレ葛飾中学校(東京)

NPO法人 夢街道国際交流子ども園(京都)

・その他フリースクール

きのくに子どもの村学園(和歌山)

・学校

八王子市立高尾山学園(東京)…不登校の生徒のための小中一貫校。

茅ヶ崎市立浜之郷小学校(神奈川)…「学びの共同体」を始めに行った学校。佐藤学がディレクターとして関わっている。

奈良女子大学附属小学校(奈良)…木下竹次以来の「合科学習」の伝統を持つ。「総合的な学習」の時間導入にあたり、モデル校となった。

・喫茶店

勉強カフェ BOOKMARKS(東京・渋谷)

カフェスロー(東京・国分寺)

 本稿執筆にあたっては、親友の大中崇正君の手助けを多く受けた。彼と行った『脱学校の社会』読書会の議論が、本論文作成に大きく貢献している。この読書会は、大学時代の愉しい思い出となるであろう。

 

 執筆にあたりご指導いただいた岡村先生、本当にありがとうございました。

(総文字数:44,313文字)



[1] Ivan Illichの日本語表記には「イリッチ」と「イリイチ」、「イーリッチ」の3つがある。本稿の地の文では「イリッチ」に統一している。

[2] 山本哲士は否定している(『学校の幻想 教育の幻想』ほか)。山本はdeschoolingを「脱学校」ではなく「非学校」と訳すことを提唱する。詳しくは本論第一部の「山本哲士の主張」を参照。

[3] 後述する『学校が自由になる日』中に、学校での中間集団全体主義の弊害の具体例が書かれている。この中間集団全体主義のクラス内での表出と、「学校化」された学びが学校内に広がる状態に、私は「気持ち悪さ」を感じたのであった。またイリッチは学校では数多くの「典礼」が行われていることを『生きる思想』のなかで述べているが、ひょっとすると学校の中での「典礼」に「気持ち悪さ」を感じていたのかもしれない。

[4] 「6、補論」を参照。

[5] 『フリースクールとはなにか』には「世界フリースクール大会」の話が掲載されている。「大会をそう呼んだのは私たちの勝手であり、正式には『International Democratic Education Conference』略してIDEC(アイデック)と大会名が付けられている」(4頁)との記述があり、デモクラティックスクールを日本流に「フリースクール」と解釈していることが読み取れる。

[6] 山本哲士はイリッチのdeschoolingを「脱学校」ではなく「非学校」と訳すことを提唱している(『学校の幻想 教育の幻想』)。『対話 教育を超えて』においては「非学校」と訳されている。

[7] なお山本哲士は次のように語っている。

〈脱学校〉は〈学習のネットワーク〉(藤本注 『脱学校の社会』では「学習のためのネットワーク」となっている)だと考えられ、ここに結論があるとみなされました。これは、〈物〉〈人〉のアクセス(接近)・交流を、自律共働的な様式の一例として教えるうえで参考にはなりますが、それ以上のものではありません。しかも、その出会いとの関係のイメージは、「網(webs)」であって「ネットワーク」ではないのです。(『学校の幻想 教育の幻想』256頁)

[8] ブログについて、IT用語辞典e-Wordsでは、次のように説明されている。

「ブログとは、個人や数人のグループで運営され、日々更新される日記的なWebサイトの総称。内容としては時事ニュースや専門的トピックスに関して自らの専門や立場に根ざした分析や意見を表明したり、他のサイトの著者と議論したりする形式が多く、従来からある単なる日記サイト(著者の行動記録や身辺雑記)とは区別されることが多い」http://e-words.jp/w/E38396E383ADE382B0.html2009817日参照)

[9] コンサルティング会社「ミューズ・アソシエイツ社長。パシフィカファンド共同代表。()はてな取締役」梅田望夫WEBサイトhttp://www.mochioumeda.com/より。

[10] なお、内藤の他の著作(『いじめの構造』・『〈いじめ学〉の時代』など)にも、この「学校リベラリズム宣言」の概要が出てくる。

[11] 群生秩序について内藤は次のように説明している。「純粋形の群生秩序は、群れの付和雷同のなかで全能を配分することによって、是/非(たとえば、ノリがよい、すかっとする/ムカつく、嫌われもの、死ね!)を分かつ、情動の共振から生じる秩序である(中略)。これを規範的な言い方で表すとすれば、『ノリは神聖にしておかすべからず』、あるいは『空気を読め』となる」(内藤朝雄『いじめの構造』講談社現代新書、2009年、38)。

[12] 『フリースクールとはなにか』において、この中卒認定試験制度導入は不登校の子どもに無用なプレッシャーをかけてしまう、と批判している。現在ではフリースクールへの参加日数を中学の登校日数として計測する中学校も多い。また中学校においても、留年者を出さないために入学後3年で、不登校の子どもであっても卒業資格を与える所がほとんどである。『フリースクールとはなにか』では、現状を見たときに「中卒認定試験を通らないと卒業資格を与えない」という脅しを中学校が不登校の子どもに与えてしまう可能性を危惧している。

[13] この「生きていく中で多くのことを学んでいる」とは後述する奥地圭子の「ヒロベン」にあたると考えられる(『不登校という生き方』)。

[14] 『教育学用語辞典』によれば、「生涯教育は生涯を通じて人間的、社会的、職業的な発展をはかるためにおこなわれる生涯学習を援助する営みで、生涯学習は生涯を通じて意識や行動様式の変容をおこなう一連の活動のこと。ただし両者を同義語のように使うこともある」(山本恒夫「生涯教育・生涯学習」128頁)とある。内藤の引用文を見ると、この箇所は生涯教育というよりも生涯学習と考える方がよいであろう。もっとも「両者を同義語のようにつかうこともある」とあるため、厳密に考える必要性もないかもしれない。

[15] 『学校が自由になる日』(2002)にも説明があるが、『〈いじめ学〉の時代』(2007)の内容の方がより容易な説明となっている。また、前者では「豊富な生の享受系」という用語が、後者では『クオリティ・オブ・ライフ系』となっている。発行年の新しいものを優先するため、ここでは『〈いじめ学〉の時代』から説明を行うことにした。

[16] 山下はイリッチのラーニングウェッブを狭く考えている。山下は「技能教育のネットワーク」のみを上げているが、イリッチは4つの機能をラーニングウェッブで示している。『脱学校の社会』には「1教育的事物等のための参考業務、2技能交換(藤本注 山下の言う「技能教育のネットワーク」)、3仲間選び、4広い意味での教育者のための参考業務」(146)とあげられている。

[17] 「6、補論」を参照。

[18] 現状、フリネットを中心に「オルタナティブ教育法」制定への動きがある。その草案のなかに「オルタナティブ教育機関の認定及び監督の窓口並びにオルタナティブ教育の公的支援を実施する機関としてオルタナティブ教育センターを設置する」と述べられている(第7項)。

[19] サポート校について、日本オルタナティブスクール協会のWEBサイトには「通信制高校の卒業資格取得をサポートしていく教育機関です。学業不振生徒・不登校生徒・高校中退者等を受け入れている学校です」(http://www.jasa.ne.jp/support/index.html)とある。